ほおずき、弾けて

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 九月の夜。東京と比べて涼しいと見越して長袖を持参したが、必要なかったかもしれない。

 店内は冷房が稼働しているにもかかわらず、宴会場の襖を明けた瞬間に、熱気がこちらへと向かってきた。

「今日の主役がようやくお出ましだぞー」

 長い大学の夏休み。帰省時期を盆からずらしたにもかかわらず、高校の同級生たちは、同窓会を企画してくれた。

 半分は地元の学校に通い、もう半分はすでに働いている。忙しいから構わなくていいと言ったが、彼ら曰く、飲む理由は多ければ多いほどいいそうだ。

 田舎には娯楽が少ない。スマホがあればなんでもできるとはいうが、実際に友人たちと遊んだり、デートをする場所は、薄い板きれの中にはない。駅前には洒落た店や映画館がなく、地元の人間を相手にする寂れた飲み屋ばかり。

 みんなで集まって、酒を飲む。手軽な娯楽の機会を逃すはずがなかった。

 友人に肩を抱かれて中へ促される。主役扱いしてくれるなら、乾杯も待ってくれればいいのに、ほとんどの連中はとっくにできあがっていた。中には極度に弱いのか、座敷に転がり眠っている奴すらいる。

 空いている席に座らされると同時に、グラスにビールが注がれた。飲んだら飲みっぱなし、どれだけ放置されていたのか。すでに温くなり、泡も立たない炭酸を、駆けつけ一杯と煽られ、呷る。

 ひとり一杯のノルマを見届けたあとは、好きに飲め。ドリンクメニューを渡されたがスルーして、参加者の面々を見渡す。

 しばらく会っていなかったとはいえ、たった一年半だ。特に、男子は、目に見える変化はない。女子はさすがに「どちらさま?」状態の人間もいるが、最終的に目指す姿はひとつに収束しているのか、個体として認識するのがより難しい。

 都会の大学生を見慣れた弘也ひろやの目には、彼らは無個性に見えた。制服から脱却したはずなのに、あの頃よりも彼らは均質だ。

 そしてそれは、きっと俺も同じなのだろう。

 東京の、そこそこ偏差値の高い大学に(一浪とはいえ)通っているから、「自分はこいつらとは違う」と、いい気になっているだけだ。もっと高いところから見た自分は、この集団の中で、最も滑稽な男なのかもしれない。

有岡ありおか~。飲んでるか~?」

 あまり喋ったことのないクラスメイトが、グラスを片手に近づいてくる。日に焼けた顔、学生時代より逞しくなった身体は、彼が肉体労働についていることを表している。

 あの頃は自分よりもよほど細かった。こうやってひとりひとりじっくり真正面から観察すると、実は変わっていることは多々あるのだと気づく。

「飲んでるよ」

 弘也の目が、彼の持つグラスに向かう。荒々しい土建屋のイメージどおりの仕草や言葉遣いの割に、飲んでいるのは巨峰サワーなのが、おかしかった。

 強い酒を馬鹿みたいに飲むのがえらいわけじゃないが、弘也の傍に転がる酒瓶の文字と自分の手の中のサワーを見比べ、彼は曖昧に笑って離れていった。

 上京した人間は、そう多くはなかった。大きな農場や、そこで穫れた作物を加工する工場。働く場所には困らない。特に女子は、地元の短大に進む人間が多かった。

 彼女たちは、弘也に興味津々だった。酌をするという言い訳で、入れ替わり立ち替わりやってくる。しかし、大学一年生である弘也が卒業するまで待つつもりの人間はおらず、すべて冷やかしだ。

 一段落したところで、ようやく落ち着いて辺りを観察する。不自然にならない程度に目を配るも、探していた人物は、いないようだった。

 いや、そんなの、探さなくてもわかっていた。

 本当に際立った人間というのは、何をしていても、何もしていなくても、勝手に視界に入り込んでくるものなのだ。

 もの思う秋だけじゃなく、どんな季節も、陰鬱な顔をしていた同級生。誰にも興味がないという顔で、話しかけられても素っ気ない返事しかしない男。

「あ、なぁなぁ、田中たなか

 クラスで彼と一番仲がよかったのは、クラス委員の男子だった。押しつけられて今日も幹事をやっている。彼の周囲から人がいなくなるのを待っていたのだ。


「どうした、有岡?」

 弘也は声のボリュームを低めて、ずっと誰かに聞きたくてうずうずしていたことを、彼に尋ねた。

伊崎いざきのこと、知らない?」

 ことさらに明るく、そこに何の感情もないのだと見せかけた。

「あいつ、同じ大学にいるはずだよな? 全然見かけないからさぁ。一年と二年でキャンパスは一緒なんだけど」

 伊崎雄二郎ゆうじろうは、優秀な生徒だった。

 高校に一枠しか来ない、東京の有名大学の推薦枠。彼が出願すると知った途端に、勝ち目がないと他の生徒は全員辞退した。弘也が現在通っている大学である。

 一年浪人して、わざわざ伊崎を追いかけたのだと思われたくない気持ちが、弘也の口をなめらかにした。

「夏休みだし、あいつもこっち帰ってきてるんじゃないの? レポートとか試験とか、ひとりで乗り切るのも大変でさ。他の友達はみんな、先輩の伝手で過去問とかノートとか、手に入れてるらしいし」
「有岡。あのさ」

 田中は眉根を寄せて、困った顔で弘也の弁舌に割り込んだ。奥歯に肉の繊維が挟まったときに、舌でどうにかほじくり返そうとして、なかなかできないでいるときみたいな顔だった。

「伊崎なら、大学には行ってないよ」

 田舎の小さな高校は、一学年に三クラスしかなかった。必然的に、三年間同じクラスの人間も多い。

 伊崎とは、ずっと同じクラスだった。

 片や、勤勉で真面目、しかし人間関係についてはクールな男。片や、おしゃべり好きで八方美人気質の男。

 どう考えても合うわけがないのは、入学式のときに彼が新入生代表挨拶をした瞬間にわかった。代表ということは、入試で首席だったということである。

「伊崎雄二郎」

 定型文の挨拶は、一言も覚えていないが、最後にそこだけオリジナルであるところの名前を言う声だけは、鮮明だった。声変わりは完全に終わっているはずなのに、マイクを通した声は、少しだけ掠れていた。

 背が高く大人びた伊崎は、毎年四月の間と試験のときには必ず、弘也の後ろに座っていた。有岡と伊崎だから、当たり前だ。間に入る苗字の持ち主は、この学年にはいない。

 これが例えば、左右どちらかに隣り合っていたとしたら、もう少し違ったのかもしれない。弘也はよく、想像した。けれど、どうしても楽しく雑談をしている光景は浮かばない。

 頭の中の伊崎は、どんな話題を振っても、いつもの仏頂面、もしくは冷笑を浮かべている。大騒ぎしているクラスを眺めながら、彼がよくする表情だ。

 弘也と伊崎の関係は、所詮、友達未満だ。敵視し合っているわけではないが、共通の話題もない。伊崎の方はどうかは知らないが、弘也は、それでも彼と話をしてみたいと思っていた。

 話題といえば、勉強くらいのもの。テストの直前に、出そうなところを尋ねれば教えてくれる。ウィンウィン、ギブアンドテイクにはなりえない。「ここが出そう」と伊崎が応えた瞬間にチャイムが鳴り、教師が入ってくる。ありがとう、の「あ」も言えない。

 だから、彼が指定校推薦で、たったひとつの枠を勝ち取ったことすら、クラスの噂話で初めて知ったのだった。

 高校三年、十月。進路について、遅まきながら弘也も考えるようになっていた。

 もちろん、それまでだって折に触れ、担任との面談を通じて、進学希望ということは伝えていた。

 しかし、具体的にどこの学校に行くのかまでは、あまり明確ではなかった。専門学校だと、すぐに就活になって面白くないから、大学。家から通うことのできる、学年の進学希望者の大部分が進む学校に行くのだろうと、漠然と思っていた。

 模試のときに、八個の志望校欄を埋めるのは大変だった。

 本命である地元の大学と、女子大の名前を書くのが男子の中で流行っていた。それから、東京にある有名な大学の名前を、そわそわしながら第四希望くらいに書いた。

 四月になったら、伊崎はその大学に行く。

 返却された模試の成績表では、当然のことながら、E判定だった。特に英語がひどかった。鞄の中に、ぐちゃぐちゃにしてしまい込む。

 来月には、形だけの面接を受けて、合格通知を受け取ることになっているにもかかわらず、伊崎はいつも通りだ。休み時間の喧しさをよそに、参考書を開いて勉強に励んでいた。

 一般入試に挑まなければならない同級生を煽るかのような行動に、弘也は舌打ちしかけて、堪える。

 いや、真面目で勤勉なのは、いいことだ。大学は学問をする場所なのから。

 遊ぶことをメインに大学に行こうとしている自分が恥ずかしくなる。

 もっと羽目を外して喜ぶとかしたらどうなんだ。お前はこの学年で、一番の勝ち組になるんだぞ。

 八つ当たりの気持ちから、弘也は席を立った。前後の関係のとき以外で話しかけるのは、初めてだった。

「なあ、伊崎さ。A大の指定校取れたって、本当?」

 サラサラ滑らかだったシャーペンの筆跡が、ぴたりと止まる。顔を上げる彼の表情からは、邪魔されたことへの苛立ちは感じられない。

「ああ」

 短く肯定した。

 いつもならそこで、こちらも「ふーん」で終わるのだが、今日の弘也は多少の粘りを見せた。

「もし。もしさ、俺がA大受けるって言ったら、どう思う?」

 数度の瞬きとともに、凝視される。銀縁フレームの眼鏡の奥の目は澄み切っていて、空恐ろしいくらいだった。

 さて、この男はどんな反応を見せるのだろう。

「頑張れ」と口だけの応援をするか、「お前が?」と、見たまま頭の悪そうな俺を馬鹿にするか、それとも「いっしょに行けるように頑張ろう」と、優等生らしい姿勢を見せるのか……。

 そわそわしていた弘也の考えとは裏腹に、伊崎の反応は、事務的だった。

「そうか」

 たった一言。

 頑張れ、という定型文すらなく、弘也から視線を外した。

 胸から喉まで、カッと熱くなった。言葉を考える心から、それを発する口先まで、すべてが怒りと羞恥で燃える。

 伊崎の眼中に、自分は入っていない。前後の席、多少喋ったことがある程度の同級生では、友人やライバルはおろか、見下し対象にすらならないことを知る。

 俺だけ。

 俺だけが、意識しているんだ!

 その事実は、弘也を打ちのめした。帰宅してからも、机に向かい、頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、成績表をビリビリに破り捨てた。

 どうにかして、視界に入ってやる。

 その一心で、弘也は志望大学をA大にした。担任にも親にも止められたが、頑固に受けると言い張った。現役時には、A大しか受験しなかったほどだ。

 絶対に合格して、キャンパスで伊崎に「よぉ」と声をかけるのだ。先輩、とでも言えば、さすがの彼も目を丸くするにちがいない。

 一年間の辛い浪人生活を、弘也は伊崎のことだけを考えて乗り切った。我ながら阿呆らしいが、そもそもの動機が伊崎だったのだから、途切れそうになるモチベーションを保つのも、伊崎ありきなのは、当たり前だった。

 そうやって合格を勝ち取った弘也は、四月に行われた各種サークルの新歓コンパには、可能な限り参加した。

 高校のときも帰宅部だった伊崎がサークルに入っているとは思えなかったが、語学などの講義が同じという学生とは、必ず行き当たるはずだ。

 しかし、伊崎を知る者は、誰ひとり存在しなかった。まるで伊崎が、この大学の学生ではないように。

 同窓会の深酒のせいで、翌日の朝は起きられなかった。本当は、朝イチで行きたいところ、行かなければならないところがあったのに。

 昼になってようやく布団から離れられるようになった弘也は、のろのろと支度をして、外出した。

「あら、あんた、出かけるの」
「んー。ちょっとな」

 行き先を告げるのは小学生まで。大学生、成人して都会でひとり暮らしをしている息子を、母はほどよく放任する。

「あっそ。じゃ、帰りにお味噌買ってきてもらえる? なんでもいいから」

 白がいいとか赤がいいとか出汁入りだとか、味噌にもたくさんの種類があることを、ここ半年あまりのひとり暮らし生活で弘也は学んでいた。あまりの大雑把さに、スニーカーの紐を結ぶ手をぴたりと止めた。

 そしてこれまでの母を顧みて、彼女が本当にどのメーカーのどんな味の味噌でもいいと思っているのだと確信し、弘也は「わかった」と請け負い、外に出た。

 半年やそこらでは、田舎の町並みは変わらない。一年間通った予備校の最寄り駅周辺は、いつも工事が続いていた。様変わりしているに違いない。

 あまり楽しい記憶はない場所なので、用事がなければ行かないだろうけれど。

 目的地は遠くない。高校に通う道とは反対方向に進むと、急に開けた駐車場付きの建物に出る。

 都会に行って思ったのは、コンビニの駐車場が狭すぎるということだった。向こうの友人にそう真顔で言ったら、「田舎が広すぎんだよ」と笑われた。

 たどり着いたのは、コンビニではない。ここに来たのは、子どもの頃、秋祭りと称したイベントのときだったか。馬鹿みたいにでかいかぼちゃの重量を当てるクイズで、惜しいところまでいったのを覚えている。

『伊崎雄二郎は、大学に行かず、農協で働いている』

 元クラス委員の田中が吐き出した事実に驚いたのは、弘也だけだった。地元から出ていない他の連中はみんな、農協の前を通りかかったり、仕事で世話になったりしていた。

 俺だけが、何も知らずに生きていた。大学に行けば、会える。驚かすことができる。ただそれだけを目標に、ひたすら勉強した。

 クラスの中で、弘也が浮いていたわけではない。男女問わず友人が多く、特定のグループ付き合いはなかったが、誰とでも仲良くやれていたと、自負している。

 それでも、一年間の浪人生活、そして半年の大学生活というブランクは、友人関係を変質させ、あるいは消滅させてしまった。伊崎のことを教えてくれた田中とだって、弘也はうまくやれていたのだ。

 なのに彼は、伊崎がどうして指定校の内定まで取っておきながら、A大に進学せず就職したのかを教えてくれなかった。勤め先を告げることすら渋っていたのを、どうにか口説き落として、ようやく吐いたのだった。

 平日の午後、残暑というには激しすぎる直射日光の熱に焼かれつつ、弘也はそっと中を覗いた。農協というからには、農家の人間が用事があって訪れるはずで、伊崎はその対応をするだろう。

 程なくして老婆がやってきた。もんぺ姿にタオルを首から下げ、麦わら帽子をかぶっている。畑からそのまま出てきたような姿の彼女は、窓口に向かう。

 果たして、彼は姿を現した。

 スラックスとワイシャツ、ネクタイは普通の勤め人といった風だ。ダサいアームカバーをつけていて、高校時代と変わらないのは、眼鏡だけだった。

 そう、本当に、眼鏡だけ。レンズの奥の目、表情は、弘也たちクラスメイトに冷ややかに向けられていた視線とまったく違っていた。

 何を話しているのか、ガラス張りの建物の外から観察している弘也には、わからない。老婆に向けられた柔和な笑顔は、仮面であってくれとさえ思う。

 しばし呆然としていると、用事を終えたらしい老婆が、ゆっくりと建物から出てきた。ハッと我に返った弘也は、彼女の後を慌てて追い、「あの!」と、声をかけた。

 小さな田舎町であっても、すべての住民と顔見知りというわけではない。彼女は突然話しかけてきた若者に、首を傾げた。

「あの、すんません、急に。俺、あいつの……伊崎の同級生なんすけど」

 我ながら、無茶苦茶な声かけの仕方である。田舎の警戒心皆無なお節介老婆にしか通用しない。

 訳ありそうに視線を逸らし、自信なさげに首を引っ込める。たったそれだけの仕草で、老婆は勝手にこちらの事情を想像する。大学の同級生もそうだが、女子というのは妄想力過多で、それは年を取っても衰えることがない。

 老婆は「あれあれあれ」と、意味のない感嘆詞を挟み、それから首を傾げた。

「伊崎……さん? っていうのはどなたのことかしら?」

 田舎の老婆とは思えない、上品な言葉遣いのギャップに感銘を受けるよりもまず、彼女の言葉の中身に、弘也は混乱する。

 伊崎じゃない? あれが? 

 愛想笑いができるようになったなあ、とは思っていた。他人の空似であれば、さもありなん。

「え、あの、おばあちゃんがさっき話してた、農協の人の名前は……?」
「ああ!」

 パッと老婆の頬が色づいた。弾けたのは笑顔だった。どうやら伊崎(仮)が、お気に入りらしい。

無理むりさんのこと?」

 無理さん。

 弘也は押し黙り、老婆が無理という男がどれほど素晴らしい人間かを熱弁するのを、聞き流していた。伊崎の人となりを確かめに来たわけだが、もはやそれどころの話ではない。

 彼女の話を適当なところで切り上げて、弘也は歩きながら、高校時代のツレに電話をした。

「うん。うん、そう。来れる? ……は? 昨日の今日だから嫌? 俺のおごりだぞ、来いよ」

 今日の夜の飲みの約束を取りつけて、弘也は通話を切った。

「無理さん……ねぇ」

 その名前には、聞き覚えがあった。嫌というほど。

 無理、という珍しい苗字は、この地域一帯の地主の名前だった。農家を営む家はもちろん、家を建てるにあたって、土地を借りたり購入したり、世話になっていない住民はいなかった。工場だって無理家の会社のものだから、その影響力は計り知れない。

 支配下に置かれているのは、大人だけじゃなかった。高校のときから、弘也たちは無理家には、一歩引いた態度を取らざるをえなかった。

 なぜなら、同級生に無理の本家のひとり娘がいたからだ。

 無理彩香あやか。何もかもが自分の思い通りになるという、金持ちらしい傲慢さを隠さない、あれは嫌な女だった。似合わない金髪のロングヘアを掻き上げて、いい女を気取っていた。

 弘也は金髪を汚らしいものだと思っていた。上京後に金髪の知り合いが新しくできて、気がついた。彩香のあのボサボサした汚い髪は、彼女のずぼらさの結果だったのだ。

 飲みに呼び出した友人は、「まだ昨日の酒が残ってるっていうのによ」とグチグチ言いながらも、結局ビールを頼んだ。

「あのさ、伊崎と無理って、結婚したのか?」

 お通ししか来ていない段階で口にしたのは、間違いだった。こういうのは、酒が入ってから、彼が理性をドロドロにして、口を滑らせやすくなってからにすべきだった。

「あー……」

 気まずそうに、彼は視線を逸らす。迅速さが売りの店員が、「ビール、お待たせっしたあ」と置いていったジョッキを、彼は「ほら、飲め飲め」と、弘也に差し出す。

 伊崎と彩香が付き合っていたのは、周知の事実だった。

 そもそもあの男に恋愛感情が備わっていたことにもびっくりだが、むしろ彩香の方に皆驚いていた。

 地主の娘で学校一のギャルと、堅物で学校一の秀才。ラブコメ漫画にしても、出来過ぎだ。

 彩香の友人(あるいは取り巻き。弘也の目には、友情ではなく媚びと映っていた)が、「なんで伊崎なんかと?」と聞けば、彩香は怒るでもなく、ふっと笑った。

『だって、この学校であたしと釣り合いそうなのって、あいつだけじゃん?』

 と。

 伊崎は眼鏡だし陰気で無表情だが、顔はそこそこ整っていた。背が高く、肌が白い。だがおそらく、彼女にとって――無理家にとってのステイタスになり得るのは、その能力だ。

 彩香はひとり娘。いずれは婿を取り、家を継ぐ。東京の有名な大学を出て、エリートになることが保証されている男を今のうちからキープしておくことに、なんら不思議はなかった。

 いつか結婚することは予想できたが、それにしても早過ぎる。本来なら、彼はまだ大学に通っている頃なのだ。それがどうして、無理家にすでに婿入りし、農協なんかで働いているのか。

「なあ、教えてくれよ」

 頼むから、と両手を合わせての懇願が利いたのか、はたまた奢りの酒のおかげか、友人は渋々、話を始めた。

「高校んとき、無理が妊娠したらしいって噂があったの、知ってっか?」
「いや……」

 三学期の自由登校期間のことだというから、弘也が知らなくとも無理はなかった。図書館で毎日勉強に励み、学校にはほとんど行っていなかった。

「俺らは伊崎にそんな度胸ねぇだろって笑い飛ばしてたんだけどよ、でも」

 彩香の取り巻きたちは、こっそりと女子の間でカンパを募っていたと言う。参加する人間もいれば、眉をひそめて「悪いけど」と断る人間も多かった。

「そういえば、卒業式、伊崎も無理も、いなかったような……」

 ああ、そうだ。思い出した。三年間、一度も首席を譲ることのなかった伊崎は、卒業式でも答辞を読むことが決まっていた。なのに当日、登校してこなかったものだから、担任たちが困っていた。結局、委員長の田中が代読して済ませたんだったか。

「俺にはわかんねぇけどさ、でも、あのあとすぐに、伊崎が農協で働き始めたんだ。無理って苗字になっててさ」

 たぶんあれ、無理の親父さんのコネなんだろうぜ……。

 弘也の頭は、うまく働かない。

「どうして」

 前途有望、大学に入っていれば、間違いなくそこでも優秀な成績を修めていたにちがいない。

 昼間見た、老婆と伊崎の姿がよみがえってくる。

 あんな風に、ばばあの戯れ言に付き合うような男じゃなかった。誰かに愛想を売る暇があるなら、勉強をする。そういう男だったはずだ。

「あいつ、こんなところで終わる男じゃねぇだろ……」

 俺が――知っている、伊崎雄二郎という男は。

 ジョッキの持ち手を握りしめる手は、力の入れすぎでブルブルと震えている。

 そんな弘也の姿を、友人は怪訝な顔をして見つめている。

「お前らって、そんなに仲良かったっけ?」

 高校時代、ふたりが並んでいる姿を思い出そうとしている友人に、弘也は動きを止めた。ふーっと息を吐き出して、首を横に振る。口元に浮かべるのは、苦笑一択だ。

「仲がよかったら、お前に聞かねぇで、あいつに直接言ってるよ」

 そりゃそうかぁ、と笑う友人は、とっくに酔っ払っていた。彼からこれ以上の情報は得られそうにない。

 奢り損か? と思いつつ、弘也は金を払った。

「ゴチんなりやーす」

 できあがった友人がふらついていて、危なっかしい。確かこいつの家は……と思い巡らし、弘也は送っていくことにした。酔い覚ましにもちょうどいいだろう。

 彼の家までは、川縁を歩くことになる。日中は暑くて仕方がないが、川を撫でてから頬に到達する夜風は、心地よかった。酒で火照った肌を、適度に冷ましてくれる。

「ん? あ~?」

 半分眠りかけていた友人が、突然声をあげた。

「おい、どうした」

 その視線の先を確認し、弘也はハッとした。

「伊崎……?」

 時刻はすでに、十一時を過ぎている。農協のダサいジャンパーで、彼は土手で何かをしている。スコップを持って、何かを植えている?

「おーい、いざ……」

 大声で彼を呼ぼうとする友人の口を塞ぎ、弘也は引きずり、遠回りして帰ることにした。

 翌朝、伊崎がいた辺りに向かうと、そこには緑からオレンジにまだらに色づき始めた袋のついた植物が植わっていた。

「なんだっけ、この草……」

 見たことがあるが、名前が思い出せなかった。スマホで写真を撮って、検索にかけてみる。 
 

 ああ、そうだ。ほおずきだ。

 けれど、なぜそんなものを植えているのか。
 

 その理由は、いくら考えてもわからなかった。

 その後、何人かの友人たちに彩香と伊崎のことについて聞いてみても、特に進展はなかった。

 当たり前だ。伊崎に友人らしい友人はいなかったし、彩香は女子。弘也が話を気軽に聞けるのは男ばかりだ。

 それにしても、彩香の現在について知る人間が誰もいなかったのは、予想外だった。よくも悪くも目立つ存在だというのに。女子ならば、何か知っているだろうか。

 そんな風に思っていた弘也のもとに、彼女の情報がもたらされたのは、意外にも母親からだった。

 母は、この辺で一番大きな病院で看護師をしている。もちろんこの病院も無理家が大きく関わっているから、弘也の学費や生活費は、気に入らないことに、無理家からの金なのだった。

「彩香お嬢さんなら、今、うちの病院に入院してるわよ」

 医療従事者が、家族とはいえこんなにあっさりと情報を渡していいのか、と弘也はじと目で母を見た。母は悪いと思っていない顔で、

「よくはないわよ。でもねぇ、全然誰もお見舞いに来ないっていうのも不憫でねぇ」

 と、お節介おばさんの片鱗を覗かせた。ああ、うちの母親もああいうばあさんになるんだろうな、と、伊崎のことを教えてくれた老婆を思った。

「入院って、まさか」

 内科や外科のある一般的な病院だが、母が勤めている病棟は、山のふもとに隔離された場所だ。まさかそこにいるわけじゃ、あるまい。

 弘也の希望は外れ、予想は当たってしまう。

「そう……『うち』に入院しているの」

 母がいるのは、病院は病院でも、精神科の病棟だ。

 田舎では、身体の病気は受け入れられても、心の病気については偏見にあふれている。だから、この田舎の中でも人里離れた山に入院病棟はつくられた。

 地元の名家の跡取り娘が、精神疾患で入院中とくれば、一大スキャンダルだ。当然、厳戒態勢を敷いた個室が当てられているし、家族が見舞いに来ることもない。噂はすぐに広まる。

 弘也は母の忘れ物を届けに、精神病棟を訪れたことがある。それだけで遠巻きにされたから、実際に入院している人の家族は、どれほどの偏見にさらされているのか、想像に難くない。

「気が向いたら、お見舞いに来てあげてちょうだい」

 ひとり残された患者を、母は気遣う。

 そんな彼女に、弘也は「気が向いたら」と、小さく頷いた。

 見舞いに来いという母の圧力に屈したわけではない。ただ、好奇心に駆られただけだ。病気の性質上、まともな会話は期待できない。それでも、彩香の顔を見たかった。

 決してポジティブな理由ではない。ぶつけたい疑問は山ほどあるが、当たり散らせば病院の、母の迷惑になるからやらない。弱り切った横顔を眺めて、「ざまあみろ」と心の中でつぶやくのが関の山だろう。

 手ぶらで行くのはさすがに気が引けて、弘也はバス停までの道中で見かけた花屋に立ち寄った。

「有岡くん?」

 花だけ見て、看板は見ていなかったから、気づかなかった。高校の同級生の店だ。それこそこの店も無理家の御用達で、同級生は彩香に逆らうことができず、取り巻きの輪の隅で小さくなっていたのを覚えている。

「ウス」

 短く挨拶をし、頭を下げる。彩香たちの一団と弘也は、普通には話すが、さほど親しくなかった。にこっと人好きのする笑顔を浮かべると、彼女は肩の力を抜き、「いらっしゃいませ」と、弘也を迎え入れた。

「お見舞いなら匂いの強い花は避けないとね」

 花に興味のない弘也は、用途だけ伝えて適当に見繕ってもらうことにした。こういうのは、プロに任せるに限る。

 花の好みがあるだろうから、と、彼女は「おじいちゃんかおばあちゃん?」と尋ねた。

 一拍置いて、弘也は答える。

「いや……無理。無理彩香の、見舞い」

 バチン、と、堅い茎を切り落とした。女は浮かべていた微笑みを急にキャンセルすることもできず、「彩香、さんの?」と、恐る恐る聞き返してきた。

 彼女の様子に、弘也はピンときた。おそらくこいつは、男友達よりも深いところを知っているにちがいない。選択をミスしないように、唇を湿らせ、考える。

「どうして」
「うちの母親、看護師なんだ。あそこに勤めてる」

 ぼかした「あそこ」が指すものを知っている彼女は、「そう」と、目を伏せた。

 真面目な女だ。ここで茶化すよりも、真摯に「知りたい」という気持ちを伝えるのが正解だ。

 弘也は女を見つめた。地味な彼女は、色とりどりの花という背景に、いともたやすく埋没する。高校時代、彩香の友人の多くはギャルで、その陰に隠れてしまっていたのと同じだ。

 本心から、彩香と友人だったわけではない。抱えた複雑な思いもあるだろう。男子よりも深いところを知り、けれど彩香を守ろうという気持ちは感じられない。
 

 話を聞き出すのに好都合な人間と、こんなところで出くわした幸運に感謝した。

「なあ、どうして無理は、あんなところにいるんだ? 何も知らないで見舞いに行ったら、言っちゃいけないことまで俺、言っちゃいそうでさ。だから、何か知ってるなら、教えてくれない?」

 女は無言で作業を進めた。香りの強い花はやめるべきだと言ったその口で、白い百合の茎を切り落としているのだから、彼女はわかりやすい。そして結局、悩んだ末に花束に入れないのだから、善良だ。

 俺だったら。

 弘也は思う。

 嫌がらせのために、そのまま白い百合を入れるだろうし、菊の花も採用する。

 弘也は店の中を適当に眺めた。小さな店だから、歩き回るほどの広さはない。初秋の花々は、春のそれとはまた、趣が異なっている。深い青の花が美しく、その花弁に触れたとき、女は口を開いた。

「彩香さんは、卒業前」

 妊娠していた。噂ではなく、事実だった。

 女子はみんな、少ない小遣いやアルバイト代からカンパを強要されたが、彩香は取り巻きたちの気遣いを、「いやよ。あたし、産むもの」と一蹴した。卒業後の進路はどうせ、家事手伝いだから、支障はないと笑った。

「じゃあ、今、その子は?」

 一歳は迎えているだろう。彩香が入院しているのなら、伊崎はシングルファーザー状態で、子どもを育てているのか。

 農協でぎこちない笑みを浮かべていたあの男は、子ども相手にも愛想笑いで対応しているのだろうか。

 弘也の想像は、しかし、大はずれだった。

 女は首を横に振った。悲しそうに、やりきれなさそうに。

「赤ちゃん、産まれなかったの。親御さんに話す前に……」

 流産。

「彩香さんは、子どもが産まれるのをすごく楽しみにしていたから」

 不幸なことに、処置が遅れた。その結果、彼女はもう二度と、妊娠ができない身体になってしまった。

 だから、狂った。最初は手首を切り刻み、どこからか入手した睡眠薬を大量に服用した。入退院を繰り返し、直近では、ドアノブで首を吊ろうとした。どれもこれも失敗に終わったのは、在宅中の伊崎が発見するのが早かったからだ。

 流産騒ぎで、娘の妊娠を初めて知った無理家の人々は、伊崎を責め立てた。

 貴様のせいだ。本家の跡取り娘だぞ。

 そんな風に責め立てたわりに、彼らは壊れてしまった彩香を持て余した。何が跡取り娘だ。そして伊崎に彼女を押しつけた。責任を取れと結婚させてしまった。

 手を出して、孕ませてしまったのは事実だったから、伊崎はまともに抵抗することなく、進学を諦めた。

 それが、弘也の知らない真実だったのだ。

「そう、か……」
「彩香さんのお見舞いは、たぶん誰も行っていないの」

 ただのクラスメイトはそもそも入院の事実を知らないし、緘口令も敷かれている。それに、親しい人間であればあるほど、以前の彼女を見て辛くなるから。

「でも、私が行かない理由は、ちがうの」

 女は、弘也にできあがった花束を差し出した。秋らしい仕上がりになっている。弘也の目は、花束に加えられたほおずきに釘づけだ。伊崎が植えていたものと違い、熟して完全なオレンジ色に染まっている。

「ざまぁみろって思っちゃう自分が、嫌だから」

 弘也に話すのは、懺悔のつもりなんだろう。彩香と同じくらい、自分勝手な女だ。女というのは、みんなそうなのか。わからない。

 女は自嘲の笑みで唇を歪めると、花束からほおずきを抜いた。途端に季節感が失われる。

「なんて、花束で嫌がらせしたら、有岡くんにも迷惑かけちゃうね」
「嫌がらせ? これが?」

 女はほおずきの果実を守る袋を指で撫でる。子宮を思わせるフォルムに、弘也の頬に熱が集まっていく。

「あのね、ほおずきって……」

 病院には、行かなかった。母親は夜勤で、弘也とは入れ違いに出勤したから、帰宅した息子のことは、知らない。

 女はほおずきを抜き取ったが、弘也は懇願し、戻してもらった。その花束を持って、夜遅くにそっと家を出た。

『ほおずきってね、昔は堕胎薬として使われていたの』

 子を堕ろすための植物を贈る嫌がらせ。たとえ正気であっても、彩香は気づかないだろう。

 だが、彼女の夫である伊崎は?

 休み時間には必ず本を開いていた、博学なあの男が、ほおずきの効用について知らないわけがない。

 なのに彼は。

「伊崎!」

 辿り着いた土手に、果たして彼はいた。自分の植えたほおずきの世話を、懐中電灯の明かりを頼りに行っていた伊崎は、弘也の吠え声に驚き、動きを止めた。ゆっくりと顔を上げ、そして「誰だ?」という表情を浮かべる。

「有岡だよ」

 お前を追いかけて、A大を受験した、大馬鹿野郎だよ。

 名前を聞いて、ようやく彼は、「そういえば出席番号が前後だったな」ということに合点がいったらしい。

「それで、何か用か?」

 落ち着きすぎている。これから弘也が何を言うのかわかっているとでもいう様子で、伊崎は軍手を脱ぎ捨てた。

 手入れの行き届かぬ指先。高校時代、彼の爪はどうだったか。少なくとも、あちこちに絆創膏が貼られていることはなかったはずだ。

 弘也は彼の聖域たる畑へと足を踏み入れた。伊崎は少し嫌そうな顔をしたが、無言だった。弘也はかがんで、ほのかに色を変じつつあるほおずきに触れる。その瞬間、弾けてしまえばいいと思った。

 彩香の腹の中で、子が死んでしまったように、実が袋の中で潰れてしまえばいいと思った。

「お前さ、無理との子ども、殺したんだろ」

 立ち上がり、足先でその根を掘り返す段になって、伊崎は弘也を制止した。視線が交錯する。眼鏡の奥の眼光は鋭い。しかし、あの頃の冷たさは消え、そこに浮かぶのは諦念である。彼は肯定の頷きを返した。

 ほおずきの根を煮出して作った茶を、効果が表れるまで、彩香に飲ませたのだ、と。

 一度口を開けば、彼は堰を切ったように話し始めた。懺悔の機会を与えられたとでも思っているのだろう。高校時代は、こんなに饒舌ではなかった。

「子どもも、彩香も邪魔だった。いなければいいと思った。東京で、大学で、やりたいことはたくさんあった。埋もれるわけにはいかないと思った」
「それで、殺した」

 伊崎は喉の奥で笑う。

「殺した? まだほとんど、人間の姿をしていなかったんだぞ」

 彼の唇は、本心とは真逆のことを嘯くようにできているのだ。本当は、誰にも言えない殺人の罪に怯えて生きている。そうじゃなきゃ、ほおずきをこっそりと植えたりしない。

 花屋の娘は、弘也にもうひとつ教えてくれた。

『ほおずきって、漢字だと鬼の灯って書いたりするのよ』

 鬼といえば、赤や青で角があって虎のパンツを穿いて……というイメージの怪物だが、この場合の鬼は、幽霊、この世ならざるものたちの総称だ。

 弘也は持参した花束を、伊崎に投げつけた。それから、彼が丹精したほおずきをむしり取る。

「こいつで、お前は魂を導こうとしてるんだ」

 亡くなった子どもの霊を呼び寄せて、伊崎が何をしようと言うのか、知らない。知りたくもない。

 すべてをお見通しであるという態度を崩さない弘也とは対照的に、伊崎は頭を掻きむしり、しゃがみ込んだ。花束は地面に打ち捨てられたまま。

 あの、先輩に対しても教師に対しても、もちろん地域の権力者の娘である彩香に対しても、常に一定の冷たさで応じていた彼の姿とは思えない。

 唸り声とともに、「どうしてうまくいかないんだ」と、ままならぬ己の運命を慟哭する。

 この男も、なんて自分勝手なのか。

 弘也は伊崎の襟首を掴み、立ち上がらせた。彼の瞳が、気弱に揺れる。

 お前は、俺が高校時代に意識していた伊崎雄二郎じゃない。

「お前がそんなにも罰してほしいなら」

 直接の被害者である子どもは、ほおずきを植えたところで彼のもとを訪れない。彩香は流産のショックで我を失ったまま、放っておけば自殺してしまう。

 伊崎の求める罰を与える人間は、いない。

 弘也は伊崎の唇に、歯を立てた。キスなんて可愛いものじゃない。薄い肉を食んで、伊崎が怯んだ瞬間、逃がさないと食いちぎる勢いで噛みつく。血の味が口の中にじわり広がっていく。

「罰してやるよ。俺のやり方で」

 ほおずき畑に突き飛ばした。自分より背の高い伊崎に馬乗りになって、その衣服を剥ぎ取っていく。抵抗されたら、容赦なく拳を振るうつもりでいたが、その出番はなかった。

 罰であると口実を作ってやった結果、伊崎はおとなしくなった。今から我が身に起こることを理解していないのかと、弘也の方が不安になる始末だった。

 あちこちを噛まれ、伊崎は自分が彩香にした行為を、もっと手ひどい形で弘也にされるのだということを、受け入れていた。

 女だったのなら、伊崎はこの行為で、俺の子を孕むだろう。産むも地獄、堕ろすも地獄。そうだろう?

 けれど、伊崎は男だ。どうしようもなく、男だ。

 孔は濡れるはずもなく、弘也による強姦は、中途半端だった。先端を入れかけたところで、あまりの狭さに弘也自身にもひどい痛みが走り、萎えてしまった。

 未遂に終わったが、弘也は安堵の涙を流した。ようやく、高校時代からの伊崎への執着に決着がついたのだと思った。

 不可思議だという顔で、伊崎が見上げてくる。泣きたいのはこちらだというように。

 月下でほの白く浮かび上がる肢体には、弘也の暴力によってついた無数の傷、とりわけ噛み痕が残る。

 そう。ずっと、こうしたかったのだ。

 伊崎を追いかけ、一年浪人してまで大学を受けた。その情熱の理由に、弘也は今更気がついた。

 それでも、認めたくない。決して愛してなどいない。こちらを見ない男が憎くて、屈服させてやりたかった。ただそれだけなのだ。

「罰を……」

 掠れた声による懇願は、愛を求めているようにさえ聞こえる。弘也は彼の頬を強く張った。それから再び、噛みつくようなキスをした。

 ふざけんなよ、何が、罰だ。

 お前が楽になるために、俺を使うな。罰は口実でしかない。この行為に込められた意味は。

 本当は――……。

 東京へ戻る前日、弘也は彩香の病室を訪れた。花は結局、買わなかった。

 例の同級生の店に行く気にもならず、他の店を探すのも面倒だった。

 白く無機質な部屋の中で、彩香はベッドの上に身体を起こし、ぼんやりしていた。よぉ、という弘也の声に、ぴくりと瞼を震わせるが、顔は向けない。
 壊れた人間の顔を、弘也は初めて見た。はずだった。

 彩香は微笑みを浮かべていた。レイプまがいのことをした弘也に、伊崎が別れ際に浮かべたのと同じ、穏やかな笑みだった。満足そうな女に対して、弘也は大きく舌打ちをした。

 ああ、どうして伊崎は気づかないんだ!

 憤りは性欲に直結する。やはりあそこで、無理にでも最後まで犯しておくべきだった。ムラつく身体を持て余し、弘也はベッドの柱を軽く蹴り飛ばした。彩香は何の反応も見せなかった。

 この女は、最初からすべてわかっていたに違いない。東京へ行ってしまう伊崎を引き留めるために子どもをつくり、そして彼が子殺しの罪で自分から二度と離れないように、狂ったのだ。

 金髪ではなく、黒髪になった彩香は、まるで怪談に出てくる幽霊のように情念の強い女であった。

 俺は、俺たちはいったい、この女の何を見ていたのだろう。ギャルの一言で表現、判断し、女の本心を覗こうとしなかった。

 東京に戻る電車の窓から、あのほおずき畑が見えた。一瞬のことだった。あの夜、荒らしたはずの畑は、元通りになっているようだった。

 死ぬまで、永遠に続く贖罪――……。

 弘也は二度と、伊崎にも彩香にも会わないだろう。会えばきっと、暴力だけでは済まない。最終的に行き着くところまで、行き着いてしまう。

 犯し、首を絞め、それを伊崎が「アイ」と受け入れ、命を落とすまで。

 決別の意志で畑の方向をいつまでも睨みつけていた弘也にはひとつだけ、わかっていた。

 これから行く先々で、幻影を探し続け、いずれは俺も狂ってしまうのだろう。

 ほおずきが弾け飛ぶより、いとも簡単に。


                 
            

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