梅雨に彩花

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短編小説

 大きく武骨な手から、丁寧な文字――読みやすい、とは言わない。癖はない。だが、ちまちました文字は、老眼鏡にクラスチェンジしたと噂の担任には、読みにくいに違いない――が生まれるのは、興味深い。

 この年になってやることはないけれど、昔はてのひら同士を合わせて、大きさ比べをよくやったものだ。あの頃から雄三ゆうぞうの手は、私のものよりもずっと大きかった。お父さんの手みたい、とはしゃいでは、何度も何度も大きさを比べたがる私に、普通よりも無口な子供だった雄三は付き合ってくれた。

 今はどのくらい違うんだろうな。私は自分の手を見る。てのひらではなくて、甲の側から。何もないのに自分のてのひらをまじまじと見るのは変だが、甲からなら、爪を見ているのだと言い訳ができる。

 実際、昼休みに友人が、きれいにマニキュアを塗ってくれたのだ。いつもとは違う、クリアブルーの涼しげな手元は、テンションが上がる。

 きゃあきゃあはしゃいでいた私たちのことを、雄三も教室で見ていただろうから、今、うっとりと爪を眺めている私のことを、彼が不思議に思うことはない。ただ黙々と、日誌に記入を続けるだけだ。

「ねえ、まだ?」

 日誌に記入された私の字は、田代たしろ彩花あやかという自分の名前だけだ。催促するくらいなら自分でも書けよ、とは我ながら思うけれど、雄三が譲ってくれないんだから、仕方ない。

 何をそんなに書くことがあるんだか、と溜息をついて諦めた。昔から彼は、こういった提出物を適当に済ませることができない性分である。

 頬杖をついて窓の外を眺める。今年は梅雨明けが遅く、曇り空からは、今にも。

「あ」

 思わず上げた声に、雄三の肩がわずかに跳ねる。相変わらず、不意打ちに弱い。

「……どうした」

 しかも、動揺を悟られまいとして、妙な一拍が生まれるのが面白い。

「雨降ってきた」

 雄三は窓の外を一瞥すると、筆記速度を上げた。文字がやや、乱れる。

「ひどくなる前に、帰ろう」

 言われる前から予想できていた言葉に、私はすでに、荷物をまとめ始めていた。

 担任に日誌を提出し、玄関へ向かう。

「あ~……やだなあ」

 ほんのわずかな時間だというのに、雨は本気を出してきた。風は強くないので、折り畳み傘でも平気そうだが、ローファーへの被害は免れないだろう。

 せめて水たまりにダイレクトイン! だけは避けなければならない。覚悟を決めて一歩を踏み出そうと、傘を開く。

 晴雨兼用の折り畳み傘は、ネイビーの地に白の小さなドットが散りばめられたものだ。シンプルで可愛いのが、制服にしっくりくるので気に入っている。

 隣に立つ雄三を見上げると、ばっちり目が合った。ということは、雄三もこちらを見ていたということに他ならない。すぐに逸らされてしまったから、あえてそこは強く追及しない。

 だがしかし、ひとつだけツッコミたいことはある。

「ねぇ。いっつも思うんだけどさ、どうして傘持ってこないの?」

 百歩譲って、今朝は降っていなかったからいいとしよう。午後からの降水確率が五〇パーセントを超えていたって、傘を持ち歩きたくないポリシーの人間は、持ってこないだろう。

 しかし雄三の場合は、たとえ朝から本降りだったとしても、傘を差さないのだ。出かけるときに降っているときには、さすがに防水ウェアを着てから外出するようだけれど、今日は制服のみ。

 雨で濡れたシャツはセクシーだろうなあ、なんて妄想はしない。翌日までにズボンは乾くんだろうか、と心配になるだけだ。

「どうだっていいだろ」

 不愛想に言い切るわりに、ちらちらと横目で私を、正確に言えば私の傘を窺う雄三は、もしかすると、そういうことなのか?

「ん」

 開いた状態の傘を差しだした。

「なに?」

 わかっているくせに、何をとぼけているんだか。

「一緒に入る?」

「って、俺に屈めっていうのか?」

 雄三は私の手から傘をひったくった。乱暴者~、と文句を言う私が棒読みなのを彼はわかっているから、「いいから行くぞ」と一歩踏み出す。

「やだ。置いてかないでよ~」

 本気で置いていくなんて、思っていない。言葉遊びのようなもの。

 十五センチくらい身長差があるから、当然、歩幅だって違う。私は雄三に合わせて少し大股で歩いて、雄三は私に合わせて、ちょこちょこと歩く。すると、ちょうどお互いに無理しすぎないくらいの感覚で歩くことができるので、私は雄三との相合傘は、嫌いではない。

 徒歩で通える範囲で選んだ高校だって、雄三も同じ理由で受験するだろうと思ってのことだった。生きるリズムが近いから、隣にいるのはとても楽だと私は思う。雄三がどう感じているのかは、知らない。

「小さいな」

 いくら私が普通より小柄でも、雄三とただの幼なじみの距離を保つのなら、肩が濡れるのは避けられない事態だ。

「当たり前じゃん。女の子が持つ折り畳み傘だよ? 嫌なら自分の傘、持ってきてよ」

 ぼそりと零した文句に、そんなに言い返されるとは考えていなかったのだろう。雄三はそれ以上何も言わず、私の肩をぐっと引き寄せた。ただの友人の距離が、ひとつ縮まる。

「濡れたらまた、風邪引くだろ」

「平気平気。もうそんな、ヤワじゃないって……ふえっくしゅ!」

 言わんこっちゃない、と呆れた顔の雄三は、私の方を見ない。ただ、肩はもっと強く寄せられたし、そうする彼の耳が赤い。

 私も意識してしまい、照れくさくなって、そこから先は、家まで無言で歩いた。結局、ローファーはずぶ濡れになってしまった。

 しかし本当に、いつから雄三は、傘を持ち歩かなくなったのだろう。彼はむしろ、傘が大好きなんだと思っていたくらいなのに。

 普通、傘は一人につき一本所持していれば、事足りると思う。せいぜい折り畳み傘を合わせて二本。女性なら、お気に入りの日傘も入れて三本かもしれない。いずれにしても、子供は長傘一本あれば、十分だろう。

 小学生の頃の雄三は、子供用の傘を何本も持っていた。おまけに雨ガッパや長靴も。晴れの日はTシャツにジャージがお決まりの男児ルックなのに、雨の日だけ妙にオシャレさんだった。

 あの頃の雄三は、小さくて可愛かったなぁ。今では面影がひとつもない。背は高いし、無口で不愛想だし、おとなしい女子からは怖がられ、物怖じしないギャルたちからは、つまらない男と侮られる。

 とはいえ、性格は穏やかで優しい。雄三の内面に触れた女子たちは、結構な確率で、彼のことを好きになる。クラス内でも確実に二人、私は彼に恋をしている人間を知っている。

 そして彼女らも、雄三が傘を持たない主義であることは知っている。

「あの田村たむらくん……傘ないなら、一緒に入っていかない? 田村くんの家って、駅の近くでしょう?」

 おとなしい顔をして、意外と積極的なんだなあ。

 甘酸っぱい少女漫画空間に、思わず靴箱の陰に隠れ、聞き耳を立てる態勢になってしまうのだった。

 雄三は、彼女が持っている傘をちらりと見た。白地に何か柄がついているようだが、閉じた状態なのでわからない。

「いや。いい」

 雄三は首を横に振ると、さっさと靴を履き替え、しっかりとウェアのファスナーを上げ、走り始めてしまった。

 雄三は、誰かと一緒の傘には入らない。女の子相手だけじゃない。比較的仲のいい友人に、「一緒に入ってけよ!」と声をかけられても、首を横に振る。

 というか、男子相手だともっと即答だ。迷う素振りも見せず、間髪入れずに「嫌だ」と言う。相手に悪いから、ではない。本心から嫌なのだ。

 せっかくの親切心を無下にされ、気を悪くした相手が、「田村は女子と相合傘したくて傘を持ってこない、ムッツリスケベ」という根も葉もない噂を流しても、飄々としている。

 事実、彼は私以外の誰とも、相合傘をしない。

 明らかに特別扱いされている。目の前で振られた同級生を見て、私の胸には甘酸っぱい安堵と、ちくりとくる優越感が満ちる。

 少女は大きく溜息をついて、とぼとぼと帰途に就く。

 彼女が広げた傘は、縁をピアノの鍵盤のプリントが取り囲んでいた。モノトーンで、可愛い傘だった。

 日曜日に、アポなしで田村家に行った。お向かいさんなので、徒歩わずかに三十秒。チャイムを押して出てきたのは、珍しい人物だった。

「あれ? 浩一こういちさん。帰ってきてたの?」

 田村家長男はとっくに就職して、家を出ているので久しぶりに会った。

「おお~。彩ちゃん。しばらく会わないうちに、美人さんになったね~」

 田村三兄弟は、顔だけはそっくりだ。しかし、長男・次男は表情豊かで口数も多い。嫌いじゃないけど、こちらとしては雄三に会いにきているのに、お兄さんのマシンガントークに付き合わされるので、大変といえば大変。

 雄三の「ゆ」の字を言い出す暇さえ与えられず、高校生活についてあれこれ聞かれていると、浩一さんの大きな声に勘づいて、雄三が現れた。

「兄貴。彩が困ってるから」

「おっと失礼。彩ちゃんがうちに来るってことは、雄三に用事だよな。ごめんね~。また時間あるときに、喋ろうな?」

 ひらひらと手を振って、部屋の中へと引っ込んでいくお兄さんは、悪い人ではないので、私も「うん。また今度ね」と、社交辞令ではなく、返す。

「どうした?」

 単刀直入に聞いてくるあたり、浩一さんと足して二で割りたい、と思う。幼なじみの私でさえそう思うのだから、田村のお母さんは、より切実だろう。

「買い物行こうよ。ほら、雄三、もうすぐ誕生日じゃない? 雄三が持ちたくなる傘、一緒に選ぼうと思って」

 この辺で買い物、となると三つ先のターミナル駅隣接のファッションビルだ。今日は休日だし、少し背伸びして、メイクもしている。雄三は、気がついていないみたいだけど。

「傘、限定?」

「傘限定!」

 少し嫌そうな顔をした雄三だが、諦めて、「支度してくるから、待ってろ」と、引っ込んだ。一分もしないうちに出てきた彼は、財布をデニムのポケットに突っ込んだ状態なので、手ぶらだ。

「言っておくが、妥協はしないからな」

 気に入った物ならば、傘を持ち歩いてもいいらしい。私は胸を張って、「当然。いくらでもお付き合いしますわ!」と胸を張ってから、馬鹿高い品物でないことを祈った。

 季節も季節なので、傘はいろんな場所で売っている。輸入雑貨メインのテナントにも、ユニセックスなラインナップの洋服店にも、数は少ないが、ドラッグストアにだって、傘は売っている。

 女性向けの物に比べれば、品数は少ないと高をくくっていたけれど、雄三は頑として首を縦に振らない。妥協しない、というのは本気だった。

 普通、買い物に突き合わされて疲弊するのは男子の方だというのに、私の方が先に嫌になってしまった。

 とりあえずトイレで用を済ませて、ついでにリップを塗り直す。

 この駅ビルにないとなると、次はどこまで行くべきか。もっと大きな街に出て、デパートを隅々まで探すべきか。

 でもそれだと、高校生のお小遣いでは、手が出せない値段の代物になる可能性がある。親に前借りしてもいいけれど……。

 考えながら、雄三のところに戻る。彼には、雑貨店の前で待っていてほしいと頼んだので、その場を動いていないはず。

 女性客がほとんどの店内に、大きな身体の雄三は、不釣り合いだった。それでも気にした様子はない。

 私がトイレに行ったのはわずか数分前のことだ。私たちのやり取りを、店員や一部の客は聞いていた。だから、奇異の視線を彼に向ける人間は、そんなにいなかったのだと思われる。

「雄三、お待たせ……って」

 声をかけたところで固まった。雄三には、傘を見て待ってて、と言っておいた。だから、彼が傘を持ち、開いているのは別におかしくない。

 おかしいのは、その色柄だった。ピンク色に黒猫が遊ぶデザインの傘を、雄三は楽しそうに――私にはわかる。あれは、無表情ではない――吟味しているのだ。

 明らかに女性物の傘を? 普通の高校生よりもごつい雄三が? 選んでいる?

「えっと、雄三?」

 硬直しているのはお互い様だった。ここで、「もらうばかりじゃ悪いし、彩に合うのを選んでたんだ」とでもごまかせば、見なかったことにできるのに。残念ながらこの幼なじみ、頭はそこそこいいはずなのに、機転はまったく利かないのだった。

「こ、これは……違う、違うんだ」

 慌てて元の場所に戻す雄三の顔色が、非常によろしくない。確実にこの男、自分用に可愛い傘をあれこれ見比べていたに違いない。

 別に雄三がどういう趣味でも構わない。可愛いモノ好きの男子だって世の中にはたくさんいるはずだし、なんなら女装趣味があったって、幻滅したりは……しない。たぶん。

 そう優しく励ます前に、雄三は大きな身体を縮こまらせて、「女装趣味があるとかじゃないから……!」と、早口で弁解を始めてしまった。

 ここで喚かれても、お店の人に迷惑がかかる。私は雄三の手を引っ張って、同じフロアにある喫茶店へと、連れ込んだ。

 ミルクティーは美味しいけれど、ホットにすればよかったな。

 ストローを銜えて、雄三が話を始めるのを待つ。彼の前には、アイスコーヒー。ストローの袋さえ破られておらず、グラスに水滴が付着するばかりだ。

 待てど暮らせど、雄三は声を発することがない。いつもいつも、私に話しかけられるのを待ってもダメだよ、とは思うのだけれど、私もこの幼なじみには弱い。

「それで? 雄三は、なんで傘を持って歩かないの?」

 なるべく優しい声を出したつもりだったけれど、雄三はぎょっとした目をこちらに向けた。なによ。気持ち悪い猫なで声とでも思ったの?

 女装趣味なの、少女趣味なの、どっち? なんて、意地悪なことを言わなかっただけ、親切だと思ってほしい。

 傘を持ち歩きたくないわりに、彼は他人の傘を凝視する癖がある。いや、他人ではない。もっと範囲を狭めて、「女の子」の持つ傘に惹かれるように見えた。きっと、先程の行動と同じ理由で、彼は自分の傘を持たないに違いない。

「……からだ」

 普段から大きな声を上げる男ではないが、この距離ではっきり聞こえないのは、いただけない。

「なに? 聞こえないよ」

 耳をさらに近づけて、内緒話がしたいならいくらでもどうぞ、の体勢を作ると、ようやく彼は、普通の声量で事情を話し始めた。

「雨の日に、暗い色の傘を差すのは嫌だからだ」

 曰く、梅雨の長雨で気持ちも滅入っているときくらい、明るい気分になりたい。

 その気持ちはとてもよくわかる。私だって、基本的に雨は好きじゃない。髪の毛もイマイチ決まらないし。

「だから、カラフルな傘がよかった。覚えているか? 俺が子供のときに差していた傘のことを」

 赤、黄色にオレンジ、水色、緑。ほぼ日替わりで私に見せに来た傘の色は、確かに色鮮やかなものだった。

 くるくると子供らしく傘を回し、水滴を弾き飛ばすのは、花が咲き誇っているようで、なんだか元気になれるような気がした。

 雄三は大きく溜息をつき、「子供の頃はよかったんだ」と言う。

「大人の男が差すような傘って、色も黒や紺ばかりだし、ほとんどが無地だろ。それか、味も素っ気もないビニール傘。あんなの、差したくない」

「ああ……それで、可愛い色や柄の女性ものの傘に手を伸ばしたってわけ」

 納得がいった。だから「傘一緒に入ろうぜ」という男子からのお誘いは、まるっと無視していたというわけか。

 じゃあ、女子からのお誘いは……やはり幼なじみ特権、というやつだろう。

「……なに笑ってんだよ」

 ふふふ、と小さく笑いが込み上げてきて、止められなかった。

「ご、ごめん。あまりにも可愛い理由だったから、雄三にはちょっと似合わないなあ、なんて思っちゃって」

 雄三はすっかり拗ねた様子で、ストローの袋をびりびりに裂いた。じとっとした目つきで、笑い転げる私を見る。その顔が、いつだったかインターネットで見たなんちゃらスナギツネ? とかいう動物によく似ていたので、余計にツボに入る。

 時折、私の笑いの隙を見て、口を開けるのだけれど、次の瞬間には思い出し笑いが爆発するので、彼は口を挟むことができなくなっている。

 悪いとは思うのだけれど、幼稚園の頃から今まで、長く一緒にいた分だけ、思い出は積もっている。

 そういえばあれも、これも……と芋づる式に子供時代の雄三の可愛らしい一面が思い起こされる。目の前のしかめっ面と重なって、あまりのギャップについ、笑ってしまうのだ。

 雄三は完全に諦めた顔をして、ウェイターを呼んだ。やけ食いとばかりに、ケーキを注文する。

 意外と甘党なのも、彼の意外な一面だ。ひいひいと笑いの発作が収まらない私に、雄三は「一口もやらないからな」と言うので、慌てて真顔を作るのだった。

「ただいまあ」

 笑いすぎて腹筋が痛い。思わぬトレーニングになった。帰宅すると、母はリビングで映画を見ていた。

 レンタルDVDかと思ったが、地上波で放送していたからたまたま見ていただけらしい。その証拠に、すぐに電源を切った。あまり面白くなかったようだ。

 映画といえば、雄三はホラー映画が苦手だ。怖いわけじゃないというけれど、ガチガチに固まっていて、説得力は皆無だ。逆に少女漫画原作の恋愛映画は嫌いじゃないらしく、私が誘うと、嫌がる素振りを見せながらも、いつも付き合ってくれる。

 そんなことを思い出して、またクスクス笑っていると、母が「なーに? 雄三くんとおでかけだったんでしょ?」と、首を突っ込んでくる。

「もうお母さん、それがさあ。聞いてよ!」

 母とはなんでも言い合うことができる。この面白さを共有してもらうべく、私は雄三との話を、少し早口に喋った。やや盛ってしまったことは認める。

「ね? 雄三ってば、可愛いんだよ」

 この母にして娘あり、と言われるほど波長が似通っている母だが、今回は私みたいにゲラゲラ笑わなかった。やや神妙な顔をして、

「ん? それってあんたが言い出したんだよ、確か」

 と、言う。

 あんなに笑っていたのに、私はぴたりと動きを止め、「……どういうこと?」と尋ねた。

 母が思い出しながら話すことには、それは私が幼い頃、入院生活を送っていたときのことだ。

 喘息持ちだった私はその年、病をこじらせ入院することになった。それはさすがに、覚えている。学校に通うことができず、毎日退屈だった。

 小学校に上がってから二か月しか経っていなかった。毎日お見舞いに来てくれるような仲良しは、雄三しかいなかった。

 折しも、梅雨時期だった。窓の外を眺めても、暗い空が広がるだけ。

「私もその場にいたわけじゃないけど、田村さんちの奥さんから聞いたから、間違いないって」

『お外が暗いのに、黒の傘なんて、嫌』

 雄三が持っていた黒い傘を、私は嫌がったのだと言う。赤や黄色や緑やピンクの方がいいな、と。全然記憶にはないんだけれど。

「雄三くん、いろんな傘を買ってくれってしつこかったんだって。で、それから毎日、あんたんとこお見舞いに来るのにカラフルな傘を差してきてたのよ」

 彼が何かをこじらせているとしたら、あんたの責任だからねえ、と言いながら、母はキッチンへと引っ込んだ。

「……マジか」

 雄三が毎日、病室にやってきてファッションショーよろしく傘を見せてくれていたのは、私のためだった。背伸びして買ってもらった黒い傘をきっぱりやめて、何本も何本も、いろんな傘をねだったのも。

 あ、もしかしてさっき、喫茶店で何か言いたそうにしてたのって、これ? 私に覚えているかどうか、確認したかった?

「マジか~……!」

 頭を抱えるはめになった。

 傘なしで出歩いて、風邪を引いたことだって、何度もあるはず。それが、全部、私のせいだったって?

 唸り声を上げながらも、私の胸を満たしていたのは、罪悪感や申し訳ない気持ちだけじゃなかった。

 そんな子供の頃の我儘を、いまだに聞いてくれようとする、普通じゃない特別扱いが嬉しかった。

 本当に幼なじみというだけで、ここまで大切にしてくれるなんてこと……あるわけない。

 薄々気づいていた雄三の無言の想いを、受け止めきれない。心臓は痛いくらいだし、顔が熱い。思わず、両手で頬を包んだ。

 何も言われていないのに、意識するのはおかしいと思っていたけれど、これは間違いない。嬉しい。

 この気持ちを、雄三に伝えたい。そう思った。

「よし」

 いつもより少しだけ、早く家を出た。向かいの田村さんちの前で、気合いを入れる。

 普段、登校は一緒にはしていない。朝に強い雄三と、ギリギリまで家から出たくない私では、出かける時間に差があるからだ。

 それに、さすがに学校行くのに迎えに行くのは、小学生じゃないんだから恥ずかしい。

 それでもこうして、彼を迎えに来たのは、それだけ大事な話があるからだ。

 チャイムを押そうとしたところで、タイミングよく現れたのは雄三だった。

「お、おはよ!」

 私のことを「なんでこの時間にここにいるんだ」と書いてある顔で見てから、「おはよう」と挨拶を返してくる。

 だが、そのままスルーして歩き始めようとするのだから、慌てた。

「ま、待って。渡したい物があるんだって!」

 鞄の中をまずは確認する。オッケー、包装はきれいなままだ。

「これ、渡したくて」

 店を探し回ってもいい感じのがないならば、ネットを探せばいいじゃない。スマートフォンを片手に、じっくり吟味した。

 やけにファンシーな包みに、雄三は少し、気後れしているようにも見える。それは諦めてほしい。ギフトラッピングを頼んだら、淡いピンクのギフトバッグに入れた状態で届いたのだ。雄三の趣味に合う……とは一ミリも考えていない。

「開けてみてよ」

 大きな手が、包みを開く。出てきた物を見て、雄三は一瞬目を丸くしたものの、すぐに唇が緩む。

「これならギリギリ、男子が持っててもいいかなあ、と思って」

 探し回った末に見つけたのは、白い傘だ。そこにアップルグリーンとスカイブルーの細いマルチストライプの柄がついている。

 女性的といえばそうかもしれないけれど、派手ではなくて、爽やかなものだ。

 今は雨が降っていないけれど、雄三はさっそく、傘を広げた。満足そうに微笑んだと思ったが、

「小さいな」

 と言った。

「一応、男女兼用なんだけどね」

 折り畳み傘だから、ある程度は仕方がない。

「いや、小さいほうがいいんだ」

「なんでよ。雄三、体格いいんだから濡れるかもしれないじゃん」

 私の言葉に、雄三は「言わせるのかよ」という目を向ける。耳が赤いのを見て、ああそういう……と、納得しかける。

「や、なんでこれからも一つの傘に入るつもりになってんのよ!?」

 何のために傘を買ったと思ってるの!?

「……たまにはいいじゃないか」

 拗ねたような声を出した雄三に、「まぁ、たまーになら、ね」と私は咳払いをする。

 相合傘が嫌、というわけではないし。それに私と一緒の傘に入りたい、というのはつまり、遠回しながらに、彼は私への、特別な好意を言葉にして伝えてくれているわけで。

「……そのときは、そっちじゃなくて、私の傘を使ってね」

 実は私の傘も、一緒に購入してある。ネイビー地のドットの傘は、雨を明るく過ごすアイテムとしては、鮮やかさが足りない。雄三はそう考えている。傘に向けられる視線は、そういう意味だった。

「どんな傘だ?」

 せっかくの相合傘。彼のテンションが上がったら、私も嬉しい。

「それは見てのお楽しみかな~」

 クリーム色のキャンバスに、赤や紫、黄色の花束を描いた傘は、灰色の雲の下で、明るく咲き誇るに違いない。

 そのとき、私は雄三に、自分の気持ちをストレートにぶつけようと思う。驚いて、傘からはみ出てしまうかもしれない。そんな光景を思い浮かべて、自然と笑みが浮かぶ。

 雨が降るのが楽しみだ。

 私は今日もいつもと変わらぬ曇天を見上げた。

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