のしかかる時の十字架

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十字架 ホラー

 男の怒鳴り声はいつも、秋生あきおの心を容赦なく殴りつけ、急速に冷やしていく。例え対象が自分ではなかったとしても、敏感すぎるきらいのある秋生は、自分のこととして受け止めてしまう。


 横目で見ると、皿を割ってしまった新人の女子大生が、店長から厳しく叱責されていた。小柄で少しぽっちゃりした彼女は、贔屓目に見ても美人とはいえない。けれど明るい笑顔と高く柔らかな声は、人を温かい気持ちにさせる。秋生はそんな彼女に、好感を持っていた。


 通算五枚目の破損で、店長の堪忍袋の緒が切れるのもわかる。しかしもう少し、言い方というものがあるのではないだろうか。厨房は客席からはそこそこ離れてはいるが、これだけの大声だ。不愉快な気持ちになっている客もいるかもしれない。秋生と同じように。


「これだからブタは嫌なんだよ!」


 人格すら否定する酷い罵倒の言葉に、彼女はとうとう涙を零した。それと同時に、秋生にも限界が来た。洗っていた皿を流しの中に投げるように置いた。ガシャン、という音に店長と彼女の目が秋生に向いた。


 一刻も早く、ここから離れなければならない。店長も、笑顔の眩しいバイトの彼女も、その他の同僚たちも巻き込みたくないのだ。


 裏口から逃げ出す。路地裏を選んで逃げて、逃げて、まだ。まだ駄目だ。人がいる。誰もいないところに、辿りつかなければならない。


 胸を切り開かれて、心臓を直接握り潰されているように、痛くて苦しい。胃液が逆流して、喉を焼く。ああ、もうすぐ、来る。


 夜でよかったと秋生は思う。汚い路地で蹲っている秋生を見ても、酔いつぶれて嘔吐しているのだろうと、無関心な都会の人間たちは無視してくれる。


「やだ。なにあれ、ビョーキ?」


 若い女の嫌悪感に満ちた声を聞いて、秋生は浮遊感に逆らわずに意識を飛ばした。


 ――そうだよ、俺は病気なんだ。

※※※

 
『解離性時間跳躍症:通称スキップ症候群』


 強い精神的負荷がかかると、タイムスキップしてしまう障害。二十世紀後半に発見され、当初は超能力と目されていたが、自由に行き来することができる訳ではなく、そのプロセスが明らかになるにつれ、解離性障害の一種であることが判明した。


 国内の患者数は約数千人であり、厚生労働省から難病指定を受けている。健常者が患者のスキップに巻き込まれると、存在が消滅してしまうケースが報告されており、恐怖に駆られた健常者が患者を殺してしまう事件が頻発している。


 なお、スキップしたまま元の時代に戻ることができず行方不明になってしまう例も多数だという……

 秋生は目を開けた。生ゴミのような異臭漂う夜の新宿ではなく、真昼の青空が広がっている。身体を起こすのがやっとだった。こんなにひどく引きずるなんて初めてだった。吐き気も残っていて、秋生は再び寝転んだ。


 背中に伝わってくるのは、コンクリートの冷たさではなくて、土の温かさだった。目の端に映るのはレトロな街灯で、今までスキップしてきた時代で見てきた物、それから歴史的な知識と照らし合わせて、おそらくここは明治から大正期の可能性が高いと推測する。


 戦国時代や太平洋戦争中でなくてよかった。スキップ中だって、死ぬ可能性はゼロじゃない。確率の高そうな時代よりも、平和な時代がいい。それに、死体は元の時代にどういう訳か戻るのだ。


 矢や刀傷、銃で蜂の巣にされた肉体、爆弾で木っ端みじんになった手足が急に現代日本に出現する。変死体が発見されたというニュースを見る度に、同じ病気の人間に違いない、と暗い気分になった。


 横になって目を閉じていると、次第に気分が落ち着いてきて、同時に眠気が襲ってきた。この気候ならば野宿でもどうってことはないし、盗られて困るような物もない。荷物はすべて、ロッカーの中だ。


 店長は自分の病気を承知で雇ってくれたとはいえ、こうして実際にスキップ発作を起こして姿を消してしまえば、店に多大な迷惑をかける。戻ったらアルバイトは辞めざるをえないが、荷物は保管しておいてくれるだろう。


 こうしていると、秋生の暮らす二十一世紀の日本は、やはり暑すぎると思う。日差しは強いものの、この場所は、心地よい風が吹いてくる。


「あの、もし?」


 という声がかけられたので、うとうとしていた秋生は驚いて目を開け、勢いよく起き上がった。その衝撃でまた、くらくらしてきたので額を押さえる。


「大丈夫ですか? こんな場所で倒れて……」
「え、ああ、はい、別に悪い病気とかではないので……ちょっと眩暈がしただけで」


 心配そうに声をかけてきたのは着物の上に前掛けをした女だったが、髪型は日本髪ではない。秋生は女を値踏みする。顔はそばかすだらけで、見るからに善良そうだ。そして女も秋生のことを同じように見ている。変わった格好だ、と思っているのだろうことが手に取るようにわかった。


「ねぇや。倒れていた方は、無事なの?」


 路上に止まっていた馬車から、高く澄んだ声が聞こえた。目の前の女は、「はい、お嬢様」と答えた。


「特に大きな病気をしているわけではないようですよ」
「そう……それはよかったわ」
「あの!」


 何度も時を超えた経験から、秋生にはわかっている。これはチャンスだ。時を超えた迷い人は、一人では生きていけない。頼ることができそうな人間がいたら、逃してはいけない。


 このお嬢様は、秋生がこの時代を生き抜き、元の時の流れに戻るまでの庇護者になってくれるに違いない。


「俺、病気とかではないんだけど、行くところがないんです!」


 勢いのせいで、咳き込んだ。馬車の中の彼女の姿は見ることができない。一瞬の沈黙は戸惑いか、それとも断りの文句を考えているのか。


 彼女はそっと息を吐くように、「それでは我が家へおいでください」と言った。


「お嬢様!」
「ねぇや。困っている人を見たら助けてさしあげるのが、神様のご意志ですよ」


 この時代にはまだ珍しい、キリスト教徒の口ぶりで、彼女は静かに言った。使用人の女は、溜息をついて馬車の扉を開けた。

 陣野じんの弓絵ゆみえ、と自己紹介した彼女の目は、馬車に揺られている間、ずっと伏せられたままだった。その長い睫毛や、白い額に流れる黒髪からは、彼女が相当の美女であることが窺い知れる。


 目を開けてこちらを見てくれないだろうか、という邪な秋生の心を見透かしたように、弓絵は、


「ごめんなさい。目は見えないのです」


 と言う。途端に不躾な視線を送っていた自分が恥ずかしくなって、秋生は視線を逸らした。見えていないのに、弓絵は空気で秋生の反応を感じ取って、笑う。


 彼女の家は江戸時代から続く、呉服屋を営んでいる。兄が二人いて、目の見えない末娘は大切にされている。金に困ることもないし、盲目だからといって苛められることもない。


 そんな弓絵の話を聞いている道中、一度だけ遮って、今が何年の何月なのかだけを確認した。


 大正十二年の夏。七月五日だった。

※※※

 弓絵の家族も皆、弓絵と同じように善良なる人々だった。思わず秋生が、この人たちは騙されたりせずにしっかり商いをしているのか、と心配になるほどだった。


 彼らは秋生に簡単な仕事を与え、それからこの時代の常識を教えてくれた。秋生は名前以外はほとんど何も思い出せない、と記憶喪失のフリをすることにした。よく使う手だ。


 秋生の一番の仕事は、店にかかりきりの親兄弟たちの代わりに、家に籠りがちな弓絵の話相手を務めることだった。


 弓絵の目は幼い頃に高熱が続き、熱が下がったときには見えなくなっていたという。


「どちらがマシなんだろう」
「なにがですか?」
「最初から見えないのと、途中で見えなくなるのと」


 最初から知らなければ、恋しいと思うこともない。しかし、元あった光を失ったときの絶望はいかほどだろうか、と秋生は思うのだ。


 弓絵は少し考える素振りを見せた。


「それでも私は、父や母、兄たちの顔を知っていることが心の支えになっているので、知らない方がよかったとは思えません」


 それに、と彼女は微笑み、秋生に手を伸ばし、触れた。額に、鼻、頬に顎。女の子の柔らかな手が顔に触れていることに、秋生は動悸が激しくなるのを覚えた。


「こうして触れれば、秋生さんがどんなお顔をしているのかなんとなくわかるのも、小さい頃に見えていたからだと思いますよ」


 弓絵の目が見えなくてよかったと思った。触れられたところから、熱が発生して、顔中に広がっている気がした。
 
 
 弓絵との仲は良好で、馬車に乗って二人で出かける、いわゆるデートの真似事をするほどに、急速に発展していた。


 秋生のつまらない話にも、彼女はよく笑う。時には涙を流すほどに。


「実は俺、未来から来たんだ。百年くらい、未来から」
「いやだわ、秋生さんが言うと冗談に聞こえない」


 冗談まじりに真実を告げたが、やはり信じてはもらえなかった。


「本当だよ、本当。百年後の未来はね、手元にある小さな箱で、手紙がやり取りできるようになってるんだ。すぐに届くんだよ」
「嘘! 信じられないわ」


 笑う弓絵は美しい。青白い顔にも血の気が巡り、薔薇色に変じる。決して華美な顔立ちではない。流れる水のような、清らかな美しさだ。


 そんな彼女の隣に立つことは、普段の秋生ならば気後れしてしまっていただろう。しかし何とか彼女の腕を取り、その身を支えていられるのは、彼女には凡庸な秋生の顔は見えていないからだ。彼女が見た目の美醜には捕らわれないからだ。


 馬車から降りるのに、手を貸した。細い指先は、ひんやりとして気持ちがよかった。自分の手にかいた汗を、彼女はその敏感な手で感じ取ってるだろうに、不快に思うことはない様子だ。


 秋生の手の熱が彼女に伝わり、広がっていく。熱が混じりあうことは、こんな屋外で感じていてよいはずのない、官能を孕んでいるような気がした。


 新宿御苑の周辺を歩くことが、弓絵は好きだった。風が緑を撫でる匂いを、ここが一番感じられるのだと言って微笑む。


 現代の新宿からは考えられない。御苑の中だけではなく、外も自然がいっぱいなのだ。木々の緑は目に鮮やかで、賛辞を述べようとして、秋生はやめた。弓絵には、見えないのだから。


 秋生は弓絵と同じように目を閉じて、息を吸い込む。敏感に皮膚が空気の動きを感じ取る。蝉の鳴き声は、耳障りなものではなく風流な響きを持っている。土の柔らかな匂いがした。


 これが彼女の世界なのだ。弓絵の視ている世界なのだ。その事実に胸を震わせ、目を開ける。


 途端、異様な光景に出くわして、秋生は絶句した。


「どうしたんですか?」
「動物が……」


 森に住み着いていたのだろう、小動物たちが集団で、道に飛び出してきた。野生動物たちは人に近づかないものなのに、白昼堂々と姿を現し、一切振り返ることなく一目散に駆けていく。


 まるで、目に見えない何かから逃げているように、秋生には見えた。


「……今日、何月何日だっけ」


 嫌な予感に、秋生は尋ねる。


「え? ええと、八月二十五日ですけれど……」


 素早く計算する。大正十二年を西暦に直す。一九二三年。その年号に覚えがあった。歴史を覚えておくことは、スキップ先での身の振り方を決めるのに、最も有効な手段だった。


 一九二三年九月一日。関東大震災、発生。


 動物の異常行動は、大地震の前兆に違いなかった。

 すぐに屋敷に戻り、秋生は何度も何度も、陣野家の皆を説得した。ここは危険だ。西に今すぐに避難すべきだ、と。


 勿論、彼らは信じなかった。地震なんて起きるはずがない。何か変な夢でも見たのだろう、と。


「せめて弓絵さんだけでも! どうかお願いです! 俺は知っているんです! これから何が起こるのか、全部知っているんです!」


 頭を下げて、声を嗄らすほど叫んだ。その切実な様子に、陣野の家の者たちも「もしかしたら」と心が揺れ始めた。


 最終的に秋生を後押ししてくれたのは、やはり弓絵だった。


「秋生さんは嘘をつくような方かしら? それに私、一人で逃げるなんて、嫌です。逃げるのなら、お父様お母様、お兄様たちと、秋生さん……皆で一緒に」


 その一言で迷っていた家族は心を決めた。どれほど弓絵を愛しているのか、あまりにも盲目で心配になったほどだ。


 大阪に支店がある。働いている人間にも大地震が起きることを弓絵の口からも説明してもらい、信じてくれた人間はともに移ることにした。


 信じずに東京に残ることを選んだ人間は、仕方がない。秋生には全員を救うことなど、できない。九月一日以降の彼らの無事を祈ることしかできなかった。


 果たして、大正一二年九月一日。午後十二時になる直前、それは起きた。すでに大阪に辿り着き、支店で労働を始めた陣野家の耳に飛び込んできたのは、その日のうちだった。


 秋生の言葉が真実になったことで、彼らの態度は変わった。ありがたいお告げを神から受け取るみことして敬う者、あるいは秋生自身が大地震を起こした鬼として怯える者、両極端だった。


 弓絵は。


 弓絵だけは、変わらなかった。変わらず、秋生と話すときは頬を薔薇色に上気させる。唯一の安らぎを求めて、秋生は弓絵とともにいる時間が、東京にいるときよりも増えていった。

 親愛の情がやがて、恋愛感情へと発展するのは自然な流れだった。秋生だけが盛り上がっているのではなく、弓絵も返してくれた。


 手を繋ぐのを照れて拒絶するようになった彼女に、告白をしたのは秋生からだった。彼女は真っ赤な顔で、「私などでよければ……」と頷いた。


 弓絵でいい、のではない。弓絵が、いいのだ。秋生の言葉に、彼女は心から幸せそうに微笑んだ。今までで一番、きれいな笑顔だった。


 秋生の指が白く柔らかな肌をなぞる度に、弓絵は嬉しそうに微笑んだ。見えない彼女に自分の顔を見せたくなって、細い指先を取って、秋生は自分の顔に触れさせた。


「人間なんてみんな同じなのですよ。目が二つ、鼻が一つ、お口が一つ……」


 言いながら、秋生の顔のパーツをゆっくりと撫でていく。くすぐったさに口から息を漏らすと、彼女はくすくすと笑んだ。


「だからね、顔なんてどうだっていいのです。その身体と魂が、健全であれば。神様は私たちを平等に愛してくださいます」
「君は? 君は俺のことを……」


 照れて顔を赤くする弓絵は、「勿論、愛してますわ」とそれでも胸を張って言う。


「俺も、君のことを愛してる」


 口づけは一瞬だけ触れるものを、二度、三度と繰り返す。そうすると秋生の胸には、安堵が広がっていく。


 きっとここが、自分の生きる時代なのだ。弓絵の隣で生を全うするために、自分はスキップしてきたのだ。
 インターネット上には、解離性時間跳躍症の患者だけが集まる掲示板が存在していた。匿名で、いつスキップするかわからない恐怖や、差別主義者による殺戮の恐れについて語り合っていた。


 頻繁に顔を出していた仲間が、不意に現れわれなくなることが、たまにあった。その後噂では、スキップしたまま戻ってこなかったのだと聞くことがあった。


 掲示板が恐慌状態に陥ることはなかった。スキップ先の時代が、彼らにとっての楽園だったのだ。そう、誰からともなく言い始めた。


 そもそもこの病気は、強いストレスによってもたらされる。現代社会が自分にとって一番の時代だと言うことは、誰にもできない。


 スキップによって安住の地を見つけることができたのならば、それに勝る幸福はない。


 噂話が飛び交う度に、一人きりの自室で「いいなぁ」と呟いていたものだが……秋生は隣にいる弓絵を見つめた。


 見えないながらに彼女は、敏感な肌で秋生の視線を感じ取り、「秋生さん?」と首を傾げた。


「……なんでもないよ、弓絵」


 彼女の絹糸のような漆黒の髪の毛を指に絡ませようとしてみたが、するりとほどけていった。

※※※

 穏やかに日々は移り変わり、秋になり冬が過ぎ、春がやってきた。こんなにも長く、一つの時代に留まるのは初めてだった。桜の木の下で微笑む弓絵に、心からの愛を誓っていた。


 陣野家の皆も、秋生たちの仲を認めていた。事実上の婿として、いずれ再興する予定の東京本店の中心人物のひとりとして、秋生は扱われた。


 弓絵の元を訪れる頻度は減ったが、より濃密な愛の時間を過ごすことができるようなった気がする。


 元いた時代では、一度も彼女などできたこともなければ、こんな風に積極的になることもなかった。


 こうなった今、秋生は自身の病気にひとつの仮説を立てることができる。多くの精神科医・心療内科医が解明しようとして、できないままでいる、スキップの原因。


 生まれてくる時代を間違えた人間が、時を跳ぶのだ。正しくあるべき場所を求めて、秋生たちは何度も時の流れを旅してきた。迷子がようやく、家を見つけた。そんな安心感を、弓絵の傍にいることで得ることができる。


「ねぇ、秋生さん。いつか言ってらしたわよね? 遠い未来から来たんだ、って。あれって本当?」
「いや……」


 冗談に決まってるだろう。そう言おうとして、秋生は息を詰まらせた。


「秋生さん? どうかしたの?」


 ひゅー、ひゅーという音を立てる秋生の喉を聞きとがめて、弓絵が心配して、腕に触れた。その彼女の手を、秋生は振り払った。


「秋生、さ……」


 上手に息ができない。喉に迫ってくるのは酸っぱい胃液だ。嫌というほど、身に覚えのある症状に、秋生は立ち上がり、弓絵から距離を取ろうとした。


 しかし相手は、人の気配の変化に敏感な弓絵だ。そう簡単にはいかず、彼女は思いがけず強い力で、秋生の腕を掴んだ。


「ゆみ、え……」
「秋生さん? 具合が悪いの? 秋生さんっ!」


 大きく息を吸い込んで、吐く。別れの挨拶をしなければならない。


 リターン・スキップ――元の時代に戻る兆候だ。


「ゆみ、え。俺、もう行かなきゃ……」
「行く? 行くってどこへですか?」


 元いた場所へ、帰らなければならないのだ。そう説明する秋生に、弓絵は縋りつく。


「また戻ってきて、くれますよね?」


 戻ってきてほしい、という切なる願いを込めた弓絵の問いかけに、秋生は「いや……」と答えるしかなかった。


 ここは安住の地ではなかった。こんなにも居心地がよかった場所は、他に存在しないのに。秋生は自分が元々生きていた時代へと、帰らなければならない。地獄のような、あの場所へと。


「夢、みたいだった……君と、会えて……愛し合う、ことができて……」


 スキップは気まぐれだ。どの時代、どの場所に行くかもわからない。何日間の滞在になるのかもわからない。そして二度と、まったく同じ点へとスキップすることはない。


 夢の続きは、二度と、見ることはできない。


「夢なんかじゃないわ!」
「弓絵?」


 こんなにも激しい彼女を見るのは初めてだった。ぼろぼろと涙を零しながら、秋生の腕を離すまいときつく抱き締めた。


「夢なんかで、あるものですか。私もあなたとともに、参ります。連れて行って!」
「無理だ!」


 怒鳴りつけても、彼女は決して秋生を離さなかった。離せば最後、秋生が消えてしまうことがわかっていたのだろう。


 時間がない。このままだとまずい。普通の人間は、スキップに耐えられない。跡形もなく、消えてしまう。弓絵がこの時代に生きていた痕跡も、人々の記憶からも。最初から、生まれてこなかったことになってしまう。


 陣野の家から弓絵を奪うことはできない。あれほどまでに溺愛された、心優しい女性を自分のエゴで消滅させることはできない。


「……未来へ、帰るのですか?」
「ゆみ……」
「冗談では、なかったのでしょう? なんでもできる箱も、手紙がすぐに届く小さな箱も、全部全部。私の目も、治せるかもしれない……」


 彼女は秋生の生きている時代に、希望を見出している。秋生にとっては絶望しか生まない、あの場所に。


「駄目、だ……君の身体は、耐えきれない。消えて、しまう……肉体も、家族の記憶からも!」
「それでも! それでも、いいの……あなたと離れることの方が、嫌よ……ねぇ、秋生さん」


 弓絵は見えない目を開いた。光を感知しないその瞳は、常に大きくなったままで可愛らしい仔猫のようで、秋生は大好きだった。


「それでも、秋生さんは、秋生さんだけは、覚えていてくれるでしょう? あなたを愛した私を……あなたが消した、私のことを」
「ゆ……」
「一緒に、参りますわ」


 弓絵の唇が、秋生のそれを奪う。彼女からのキスは初めてだった。そのまま弓絵の細い体を抱き締めた。


 覚悟は決まった。彼女を連れて、跳ぶ。確実に彼女の存在は無へと帰すであろう。だが、秋生はただ一人、この世でただ一人、陣野弓絵という女がいたことを記憶に留めておける人間だ。


 それは、彼女を永劫に自分の内に閉じ込めていられる唯一の方法。


 彼女を消した罪を一生背負って生きることは、なんと甘美なのだろうか。


 甘い罪を想って、秋生は目を閉じて時間の海へと揺蕩った。腕の中の女の肉体の感触を、最後まで味わいながら。

※※※

 夕方のファミリーレストランは、帰宅途中の高校生たちでいっぱいだ。がやがやと騒がしい中で、ある少女が自分たちのテーブルに起きた異変に、突如として気がついた。


「ねぇ、なんでさっき店員さん、お水三つ置いてったの? 二人しかいないのに」
 確かに少女は二人で席についていた。そう言われた「隣」に座っている友人も、「おかしいね」と言う。


「っていうかそもそもなんでうちら、隣り合って座ってんの?」
「ほんとだきっも」


 げらげらと笑う彼女たちは、向かいの席ににもう一人、友人が存在していたことを、一瞬のうちに忘れていた。


 秋生は会計を済ませ、店の外へと出た。病的に痩せて、目は落ちくぼんでいるのにギラギラしている秋生は、周囲から遠巻きにされる。


 ――弓絵を巻き込んで、スキップなんてするんじゃなかった。


 あれほどまでに甘く感じられた永遠の愛は、秋生の想像とはまったく異なっていたのだ。


 秋生は再びのスキップの予兆に、走り出した。誰かに見つかって、介抱されてはならない。またその人物を巻き込み、消滅させてしまう。そしてまた、罪が増えて秋生は狂う。


 跳ぶ時代がバラバラなのは今までどおりだった。だが、弓絵を消してしまってから、これまでの比ではない頻度で、あちこちへとスキップしている。過去へ、未来へ、現在へ戻り、また未来へ、未来へ、未来へ!


 あの時、一人でリターンをしていれば、秋生を失った弓絵は、盲目の女でも愛してくれるという優しい男の元へ嫁いでいたのだろう。そして子供を産んだ。何人も、何人も。その子がまた子を産み、そうやって弓絵の血筋は繋がっていき、現在、そして未来は構築されていた。


 弓絵を消したことで、彼らもまた、消えた。失うのは弓絵一人ではなかった。彼女から連なる者たちは、皆消えた。


 幾百、幾千もの、地球が滅びるまで絶え間なく続いていた弓絵に連なる血は、すべてあの時、消えた。


 ひとつの歴史を捻じ曲げ、無きものにしてしまったことさえ、あるのだろう。


 人を一人、消滅させるというのは、そういうことなのだ。


 秋生はスキップを繰り返し、弓絵から生まれたはずの人々が消えるのをまざまざと見せつけられていた。もう何度、スキップを繰り返しただろう。落ち着く暇もない。


 ……これが、他人を巻き込んでスキップした者に科せられる罰。


 秋生は患者の集まる掲示板に、もうずっとアクセスしていない。きっと彼らは、秋生が楽園に辿り着いたのだと、羨んでいるだろう。秋生がいるのは、地獄だというのに。


 秋生の上に降り積もる「時」は、重い十字架だ。その重みに耐えきれなくなったとき、秋生は自分がどうするのか、よくわかっていた。


 そして、それを実行すれば弓絵が真に消滅してしまうのだということも、よく理解していたのだ。


 ――まだ。まだ、狂ってはいけない。

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