世話になった同期の頼みだからって、ほいほい聞くんじゃなかった。
「うっ」
口元を押さえ、篤志はえずく。明らかに酔っ払いの醜態だが、篤志はほとんど飲んでいなかった。
「大丈夫ですか?」
気遣いの言葉とともに手渡されたペットボトルは、ひんやりと気持ちいい。ありがたく受け取って、目元に押し当てた。
俯いたまましばらくそうしていると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。先程から何くれと世話を焼いてくれる人物に、礼を言う余裕も出てきて、顔を上げた。
「ありがとう」
居酒屋から篤志を引っ張り出し、公園のベンチで回復するのを待っていてくれるのは、見ず知らずの青年だった。隣のテーブルでどんちゃん騒ぎをしていたグループの中にいたから、たぶん大学生。楽しい飲み会を邪魔したことを謝罪すると、彼は首を横に振った。
「別に。出たくもない飲み会だったんで」
湿気を含んだ風が、頬を生温く撫でていく。そんな熱帯夜にはそぐわないほど、青年は涼やかであった。クールな見た目とは反して、気の進まない集まりでも参加するあたり、どこか自分と似た気質を感じて、篤志はつい、愚痴を言ってしまう。
「今どき、合コンなんてさぁ」
市役所勤めの篤志のところに打診があったのは、今日の昼休みのことだった。地元の中小企業に勤めている友人の落合から、どうしてもメンツが揃わないというメッセージが届いた。
そりゃ確かに、恋人はいないけれど。
二十六歳にもなれば、付き合いには一時の快楽ではなく、将来への展望もつきまとう。ただ、落合の言う合コンは、よくよく話を聞いてみれば、彼の取引先の男が「やりたい」と言い出しただけの、いわば接待であった。
落合の人脈でかき集めた女子は、なかなかの美人揃いだった。大企業勤めの男だと説得して、来てもらったらしい。今は地方支社で燻っているが、いずれは本社に栄転すると豪語する男は、しかし、すでに四十歳近く、仕事ができそうな雰囲気でもなかった。
そこになぜ部外者の篤志が呼ばれたかといえば、男の横暴さは社内では有名で、誰も付き合ってくれなかったからだという。ひとりで男の太鼓持ちをするのは大変だ。ついでに、騙し討ちのように連れてこられた女性陣の機嫌も取らなければならない。
篤志は押しつけられた役割をこなした。窓口業務で身についた愛想笑いを総動員した。男が女性たちにセクハラをしそうになったときには、酒を注いで遮った。
「しかも、王様ゲームなんて」
合コンといえば王様ゲーム。いつの時代の話だ。
酔っ払った男は、番号を書いた割り箸を、ずいと突きつけてきた。篤志以外はそこそこできあがっていて、若干引きつつも、くじを引いた。
『1番と4番が、キスしろ!』
当然のように王様を引いた男の命令に、1番の篤志は血の気が引いた。4番はパンツスーツのよく似合う、キリッとした美女だった。彼女はすっかり酔っていて、もうキスする気満々で、相手を探している。
いつまでも隠しておけるわけもなく、篤志は笑みを貼りつかせて、両手を振り、曖昧に断った。
男は小学生のように「キース、キース!」と囃し立てるし、女は「私じゃ不満なの?」と怒っている。落合に助けを求めても、「キスくらいしろよ」と、顎で指図される。
味方は誰もいない。篤志は血の気が引いた。女の赤い唇に目が釘づけになり、ぐるぐると視界が回った。
するしかないのか。この唇に、キスを。
そう思った瞬間、腕を掴まれた。怒ったような無表情の青年が、篤志を見つめていた。
うるさくしていたことを、咎められるのだろうか。謝罪しようとした篤志だったが、青年の怒りの矛先は、篤志以外に向けられていた。
『あんたら、いい大人のくせして何してるんですか? この人の顔色見えないんですか?』
そう言われてようやく、篤志の真っ青な顔に思い当たったらしい。落合が立ち上がろうとしたのを制して、青年は篤志を連れ、外に出た。
口の中をゆすぎ、どうにか帰るだけの体力と気力が回復した。立ち上がった篤志は、青年に正対して、もう一度礼を言った。
「本当に助かった。今度きちんとお礼をさせてほしいから、連絡先を教えてくれる?」
食事でも一緒に行こうと言うと、青年の頬に朱が走った。薄暗い街灯の下でも、はっきりとわかるほどだった。
その後、助けてくれた大学生――風見涼太とは、何度か食事や映画をともにした。同じものを美味しいと感じ、同じ映画作品をおもしろいと思う。さまざまな点で、趣味が合った。ジェネレーションギャップはあるが、涼太は大学生とは思えないほど落ち着いているので、気にならなかった。
彼の隣にいるのが自然で、心地よく感じるようになったとき、篤志は涼太から告白された。ちょっと散歩しませんか、と連れていかれた、あの日と同じ公園でのことだった。
「居酒屋で隣のテーブルにいるときから、気になってて。だから、追い詰められてるのを見て、いても立ってもいられなくなったんです」
一目惚れした、と言われたに等しかった。あの店では、格好悪い姿しか見せていなかった篤志は、にわかには信じられなかった。へこへこしてばかりで、王様ゲームのときには毅然として断ることができなかったのだから。
そう言うと、涼太は目元をほんの少し和らげた。
「篤志さんは、自分のいいところに気づいてないだけです。俺はわかってるからいいんですよ」
あの店での振る舞いだけで、涼太はいくつも篤志の長所を見つけていた。
例えば、騒がしいのを恐縮して、店員に視線と会釈で謝っているのだとか。
そんなところまで見られていたのだと知って、篤志は耳まで熱くなった。
年齢差もあるし、何より同性と付き合ったことなどない。だが、篤志はほとんど悩まずに、涼太の手を取った。
「篤志さん!」
感動した涼太は、篤志を抱き寄せた。自分よりもだいぶ背の高い彼は、胸板もしっかりしていた。なんだかわからないけど、ドキドキする。
うっとりと洋服越しに伝わってくる熱に浸っていたら、いつしか顔を上向きにされていた。そこでハッと正気を取り戻し、篤志は咄嗟に唇をガードした。タイミングよく降りてきていた涼太の唇が、手のひらにプチュ、と触れた。
「ご、ごめん。でもまだちょっと、そういうのは」
口をついて出てきたのは、本心とは異なる理由だった。篤志の適当な言葉に納得している様子の涼太の目には、温かな愛情が籠められている。
彼の微笑に、胸はちくりと痛んだが、篤志にできたのは、いつもの愛想笑いだった。
そうして付き合い始めて、五ヶ月あまりが経つ。二人とも独り暮らしなので、週末はどちらかの家に泊まることが多くなった。
今日は涼太が篤志の家に訪ねてきて、二人でたこ焼きパーティーをした。学生時代に戻ったような気がして、いつもよりはしゃいだ気がする。
後片付けをしていると、ふっと影がさした。洗い物をする篤志の隣に、涼太が立っていた。
「涼太?」
彼はあまり強くないが、酒は好きだ。今日も発泡酒を何本か飲んでいる。夢見心地の瞳で見つめられると、身体の奥が、じん、と痺れるような感覚に陥る。
ああ、来る。
降りてくる唇に、篤志は覚悟をもって目をぎゅっと瞑った。だが、やはり駄目だった。吐息と熱を微かに感じただけで、反射的に顔を逸らせ、涼太の身体を押しのけていた。
「ごめん」
このやりとりも、もはや何度目だろうか。一般的に、付き合ってどのくらいでキスをするに至るのかはわからないが、五ヶ月はかからないだろう。
居たたまれなくて下を向いていると、隣にあった熱が移動した。そして小さく漏れ聞こえた溜息に、肩が震えた。
もう一度、謝らなきゃ。顔を上げると同時に、しかし、涼太は何も言わずに外へと出て行った。
「あ……」
声をかける隙なんてなかった。篤志はその場にへたり込んだ。出しっぱなしになっている水の音が、ようやく耳に戻ってきたが、止める気になれなかった。
きちんと説明するべきだったのに、つまらない意地が邪魔をした。
居酒屋での一件を、涼太は勘違いしている。すなわち、篤志は遊びやその場のノリでキスすることが嫌いな、潔癖な性質なのだと。
実際は違う。篤志が苦手なのは、軽薄な雰囲気ではない。キスそのものに、はっきりと嫌悪感があった。
原因は明らかだった。一人っ子同士の両親の間に産まれた篤志も一人っ子で、親だけではなく、双方の祖父母から溺愛された。
特に祖父たちは、何度両親が諫めても、煙草や酒を嗜んだ後の口で、幼い篤志にキスをした。頬や額ではない。べっちょりと口に、だ。ファーストキスなどという言葉も知らぬ時分から、唇を奪われ続けてきた。
初めての彼女ができたときに、篤志は自身の厄介な性質を知った。少年らしい憧れの詰まった口づけの後、篤志は激しく嘔吐したのである。当然、その場ですぐに振られた。
緊張しているせいだと思っていたが、その後もずっと変わらなかった。大学時代には、キスだけを上手く避けてその先のセックスに及ぶこともできたが、無論、不信がられて関係は破綻した。
キスもまともにできない男だと、年下の涼太に思われたくなかった。だから、これまで本当のことを隠してきた。
出て行ってしまった涼太はきっと、呆れているに違いない。付き合いを受け入れたくせに、キスのひとつすら、しない、させない。
篤志に対して腹を立てるのならば、ひたすら謝るだけだ。しかし先程の溜息は、怒りというよりも落胆のように感じられた。
もしも涼太が、男同士だからキスを避けているのだと、勘違いをしていたら、どうすればいい。謝ったところで、現実味が増すだけではないか。
同性ということに引っかかっていたのなんて、告白された瞬間だけだ。吐き気を催さずにできるものなら。
「涼太になら、何度だって、キスしたい、のに」
言い慣れていないせいか、何度か言葉が切れた。そうだ。一度も言ったことがなかった。好きという言葉さえ、そう何度も口にした記憶がない。
こんなんじゃ、駄目だ。
篤志はすっくと立ち上がる。水を止める前に、手で掬って喉を潤した。あの公園で飲んだ水よりも、冷たい気がした。
まだきっと、間に合うはず。謝って、意地を張って言い出せなかった本当のことを話して、そして。
靴を履くのももどかしい。どこへ行ったかわからないから、涼太のアパートまで行くつもりでいた。待っていればそのうち絶対に帰ってくるだろうから。
ドアを勢いよく開けた、まさにそのときだった。
「篤志さん?」
出て行った涼太が、戻ってきた。怒ってもいなければ、悲しんでもいない。怪訝な表情を浮かべた彼と見つめ合い、篤志は再び、ふにゃふにゃとへたり込んだ。
涼太は、ドラッグストアに行っただけだった。
なんでドラッグストア? 首を傾げる篤志に、涼太はばつの悪そうな顔をする。泰然としている彼にしては、珍しい表情であった。いたずらが寸前でバレてしまった子どものような。
涼太の様子とドラッグストアのビニール袋の中身が気になって、チラチラと見てしまうものの、何よりもまずは、彼を追いかけようとした目的を果たそうと思った。
「本当に、ごめん。俺、実は……」
それから洗いざらい話した。子どもの頃の経験から、恋人に振られ続けた過去まで、何もかもである。
黙ってうなずいて聞いていた涼太は、なんとなく気づいていたと言う。
「ハグもスキンシップも嫌がらないから、キスだけなんだろうと思ってたけれど、結構深刻だったんですね」
はぁ、と苦笑いを浮かべた彼は、きっと呆れているに違いない。つまらないプライドから隠し事をしたことは、愛想を尽かされても仕方ないだろう。
話を聞き終えて、涼太がどのような判断を下してもいいように、篤志は正座をしたままで待つ。
ガサゴソという音に顔を上げると、転がしてあったビニール袋から、涼太が買ってきたものを取り出していた。紙袋で二重に包まれていた中身を、篤志の目の前に置いた。
「キスがダメでも、その先には嫌悪感もってないのは知ってたから」
「それって」
確かに、男と付き合うのは初めてのことだったから、あれこれとネットで情報を調べたことはある。涼太のことは信頼していたので、スマホやパソコンをつけっぱなしで、その場を離れたこともあったので、そのときたまたま見られてしまったのだろう。
あまりの羞恥に、頬が燃えるように熱くなった。体格差などから、自分が抱かれる側であろうことは、最初から予測がついていた。想像しても嫌悪感はなく、身体の奥に火種のように欲望が燻ることさえあった。
自分のムッツリ加減には、涼太は気がついていないだろうけれど、行為に対して前向きであることは知られてしまっている。
紙袋の中に入っていた品は、ローションとコンドーム。どちらも男同士のセックスの必需品だった。
「ゴムくらいなら、うちにだって」
ごにょごにょと言う篤志に、涼太は照れ笑いを浮かべた。
「えっと、たぶんサイズ、合わないから」
思わず彼の股間に目がいってしまい、ハッと視線を逸らした。ムッツリだとバレてしまうではないか。
涼太は篤志の手を取る。おとぎ話の王子様が、救い出したお姫様にするように、優雅な手つきだった。
キス以外にも、愛を交わす手段はいくつもある。
そんな文言を囁いた後に、涼太はいたずらっぽく笑った。
「それに、唇にするだけがキスじゃないってこと、篤志さんに教えてあげようと思って」
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