飛行機を降りた瞬間、熱気が襲ってきた。
「あ……っつーい!」
誰よもう、北海道は涼しいなんて言った奴は! と憤慨しつつ、日よけのカーディガンを脱ぐ。機内アナウンスで「現地の気温は現在二十六度、予想最高気温は三十一度……」と流れていたのは空耳かと思っていたが、マジだった。
確かに湿度は低いようだから、東京よりはマシだけれど……と思いつつ、駅へと向かうバスに乗り込む。さすがにバスの中は空調が効いていて涼しかった。
就職活動に入る前の最後の夏休みだ。本当なら友達とぱーっと東南アジアあたりに旅行に行こうとしていたのに。国内の方が高くつくなんていけていない。
空港から駅までも長い。ガイドブックによると、更にそこからまた、バスに乗らなければならない。
「嘘でしょー……」
なんでこんな田舎に来なきゃいけないのよマジで。
都会育ちの彼女は、深い溜息をついた。
きっかけはこの春、大学三年にあがったばかりのことだった。その時はまだ、友達との旅行に胸を躍らせていた。
「私、改名するから」
就職活動が始まる前に絶対に改名する! とかねてから考えていたので、母親に対してそう宣言した。
女手ひとつで育ててくれた母だが、普段家にいるときはぼんやりしている。夢見る少女のような彼女は、首を捻った。
「どうして?」
「どうしてって……決まってんじゃない」
こんな名前でまともな企業に就職なんてできるはずがない、と主張するが、いまいち母にはピンときていない。
それもそのはずで、母は看護師という技術職。一般的な就職のイメージに実体験が伴っていないのだ。
無論、母の時代とは異なることはわかっているが、それでも最近のワイドショーや雑誌で面白おかしく話題にされている件が、自分の娘にもばっちり当てはまっていると受け止めていてほしかった。
「どうしてぇ? いい名前じゃない、アイビーって」
どこがよ! と内心で悲鳴をあげた。愛が美しい、と書いて「アイビー」と読む。この名前のせいで気弱だった幼い頃は苛められた。変な名前変な名前、ガイジン! と。
本当にハーフであったならばまだマシだった。残念ながら目の前の母は勿論、死別した父も純粋な日本人だったらしく、素顔のアイビーは「ザ・日本人」という顔である。鼻は丸くて低いし、彫りは浅い。
高校生になってメイクを覚えると、アイビーは「これであなたもハーフ顔☆」と言った特集に掲載されているメイク術をかたっぱしから真似するようになった。
ハイライトとシェーディングを駆使し、カラーコンタクトは手放せない。髪の毛は定期的に明るい茶色に染めている。
そうすることで初めて、アイビーは自分の名前のコンプレックスを軽くすることができた。けれど決してなくなることはない。自分ではどうすることもできない「名前」の呪いは、アイビーを強く縛り付けている。
自己紹介は地獄だった。小学校、中学校、大学と、アイビーが名乗ると空気がおかしくなる。皆、「え? 聞き間違いかな?」という顔をして、言い間違いでも聞き間違いでもなく「アイビー」という名前だと知ると、例外なく笑う。
最近では合コンの度に本名を隠すのだが、意地の悪い友人が「この子、本名がアイビーって言うんですよぉ」と甘えた声で一番人気の男性に対して言うものだから、消えてなくなりたい気持ちになる。
頭がよさそうで格好いい、好みのタイプの男性にはまず間違いなく引かれてしまう名前だ。近寄って来るのは頭の悪い男ばかり。歴代の彼氏も、息をするように嘘をついたり、女と見れば口説いたりというダメ男ばかりだった。
そうした名前にまつわる長年の苦労や恨み節をアイビーは滔々と語ったが、母は心の底からいい名前だと思っているらしく、右左と首を傾げる。その様子はお嬢様然としているが、実際には父の死を乗り越えてここまでやってきた、苦労人だ。
だからこそ、アイビーはこれまで母には強く出られなかったのだ。からかわれても苛められても、「化粧濃すぎない?」と眉を顰められても、笑って母の追及から逃げた。
けれど二十歳を越えて、もうアイビーも大人だ。逃げてばかりいられない。母からも、自分の名前からも。真っ直ぐに向き合って、戦うべきだ。そして自分自身の人生について、責任を持ちたい。
「まぁ幸いにして、名前の読みだけなら役所に申請すればいいみたいだから、『まなみ』に変えるわ」
別に「あいみ」でもよいのだが、それでもキラキラ感が強くて、自分には似つかわしくない。
「うん……」
母は不満そうに唇を尖らせて思案している。
「反対したって無駄だからね。もう決めたから」
「うーん……わかった。わかったけど、一つだけ条件、つけさせてちょうだい」
改名手続きに関して母が提示した条件。それが、北海道・黒岳付近に暮らす写真家に会いに行くことだった。どうして、と問うと「彼は私とお父さんの友達でね。あなたの名付け親なの」という答えが返って来た。
『近くには温泉もあるから、そっちのホテルで二泊くらいしてらっしゃいよ。何回か行ったことあるけど、とってもよかったわよ』
別に温泉なんてどうでもいい。両親の友人だというアラフィフ男性は独身で、高山植物の写真を撮るために一人で山の近くに住んでいるらしい。その話を聞いただけで気が滅入った。
その年まで独身なんて、どこかに深刻な欠点があるに違いない。もしもそれが若い女の子にしか欲情しないなんていう性癖に関わることだったら。
それでもそんな危険な場所に行く気になったのは、アイビーの我がままをこれまで笑って許してくれた母が、初めて自分に対して「お願い」をしてくれたからだった。
電車を降りて、ここからはバスに乗らなければならない。バス停を見つけるよりも前に、「アイビー、さん?」と声をかけられて、アイビーは振り返った。
山の近くに暮らす男だというから、熊みたいな容姿だろうというアイビーの予想に反し、男は線が細く眼鏡をかけていた。山男、というよりは学者のようだ。
「どうも、川上です。百合子さんから話は聞いているよ」
柔らかく細い髪の毛が、山からそよいでくる緑の風になびき、それが気になるのか、川上は右手で頭を押さえた。
迎えに来てなんて、頼んでいない。知らない人の車に乗ってはいけません、と幼稚園児のようなことを言ってお断りしようとしたアイビーだったが、結局川上の車に同乗した。
タイミング悪くバスが行ってしまったばかりで、意地を張るにも何もない駅で時間を潰すのは辛いと思ったからだ。
後部座席でぶすっとしているアイビーを気遣ってか、川上は黙ってカーステレオから音楽を流し始めた。洋楽だったので、歌詞がわからないままメロディーだけが聞こえてきて、それがなんだか心地よかった。
東京からの長旅の疲れが出て、ドラムのリズムが刻む鼓動と重なった一体感に眠気を誘われ、いつしかアイビーは寝息を立てていた。
「アイビーさん、アイビーさん?」
遠慮がちな声に、アイビーはぼんやりと目を開けた。困ったように笑う川上に、目的地に到着したのだということを理解する。
「よかった。なかなか起きないから心配したよ」
心底ほっとしたような表情を浮かべた川上の背後には、山が見えた。夕日が落ちかけ、紫色の空に黒いシルエットになっている山が、川上のフィールドなのだという。
夕方の山は肌寒く、アイビーはカーディガンの前を合わせた。荷物は勝手に川上が持ったのでほぼ手ぶらだ。川上の後ろをついていくと、彼の事務所兼住宅の一軒家へと通された。
ログハウス風のその家は、木の温かさがある。ぐるりと高い天井を見渡した。居間には暖炉と、その前にロッキングチェアがあり、ここが日本だとは思えない。家具や壁紙、カーテンといった調度品も北欧風で洒落ていた。
奥さんのセンスかしら、と考えて、そういえば川上は独身だった、と思い出す。独身の中年男性で、北欧ファブリックが好きな高山植物専門の写真家。川上のことを知ると同時に、更に謎めいた印象が深まっていく気がした。
その独身男と二日間、同じ屋根の下で過ごすのだ。アイビーは出発前の不安がぶり返すのを感じた。
優一さんは紳士だから、と母は言っていたが、しばらく会っていないうちに変貌を遂げているかもしれないじゃないか。
そこにどうぞ、と示されたソファに座って落ち着かない気持ちでいるアイビーの元に、川上はコーヒーを持ってきた。
「すぐに夕飯にするね。これでも飲んでゆっくりしてて」
私も手伝う、と腰を上げようとしたアイビーを川上は制した。君はお客さんなんだから、ね? そう微笑まれると、アイビーは強く出られずにそのまま黙ってコーヒーを啜っていた。
夕飯はとても美味しかった。手伝わなくて正解だったかもしれない。寝る前に、ぐっすり眠れるハーブティーがあるから、と淹れてくれたお茶も、とてもいい香りだ。
もうその頃には川上に心を許していた。変な性癖とかもなさそうだし、母の言う通りの紳士だ、と。料理も上手だし、「お口に合うかどうか」と言いながら手作りらしいクッキーでお茶にしようと誘ってくれる。
下手に海外に行って変な男にナンパされるよりも安心安全で、これはこれで楽しいかもしれない。アイビーは「うーん」と背伸びをしてログハウスの高い天井を見つめ、はたと思い出す。
頭からすっかり抜け落ちていた。ここに来たのは楽しい山小屋暮らし体験ではなく、なぜ自分に「アイビー」などというふざけた名前をつけたのかを聞きにきたのだった。
アイビーは慌てて居住まいを正して、口火を切った。
「川上さん。どうして私に、アイビーなんて変な名前をつけたんですか」
変な名前、かぁ、と川上は苦笑して自分のハーブティーを飲んだ。
「変ですよ! お母さんも川上さんも、私がどんな苦労をしてきたか知らないからそんな風に言うのよ」
今までも、そしてこれからも、この名前のせいでアイビーは幸せになれない。就職も、恋も、結婚も。子供が生まれたらその子供も、母親であるアイビーの名前のせいで苛められるかもしれない。
名付け親だという川上や、実際に自分を育てた母は、アイビーに対してこの名前をつけた理由を説明する責任がある。
「それは明日の朝、説明するよ」
川上は笑った。それからアイビーの荷物を持って、
「明日は早いから、もう寝なさい。朝一番のロープウェイで上に行くから」
と、言い、アイビーが宿泊する部屋へと持って行った。こんな早い時間に寝ろと言われてもね、と、まだ十時にもなっていない時計を見て思った。
それに夕方、車の中で居眠りをしたし。そう考えて、そういえば川上は自分を揺すって起こすようなことはしなかったな、と気づいた。触れることすら躊躇する男は信用に足るだろう。
はぐらかしたりごまかしたりはしないはずだ。きちんと約束どおり、明日の朝、話してくれるだろう。
川上は朝早くにやってきてドアを強くノックしてアイビーを起こした。もうあと十五分で出るよ、と言われて慌てて支度をした。顔は洗ったが、化粧までは手が回らなかった。
すっぴんで人前に出るなんて何年振りよ、と持ってきた帽子を目深に被った。眉毛も薄いしカラコンも入れていない。「アイビー」という名前にふさわしくない自分の顔を晒すのは恥ずかしかったけれど、川上は気に留めることもなく手を振ってアイビーを呼んだ。
後部座席にはカメラを始めとした撮影機材を大量に積んであるため、アイビーは昨日と違って、助手席へと乗り込んだ。
ロープウェイ乗り場までは割とすぐだった。観光客も多く、一台見送ってから、二人は黒岳の七合目へと向かった。
ウィンドブレーカーと運動に適した靴を持ってこいと言われたから何事かと思ったが、登山する羽目になるとは思わなかった。そう言うと、川上は苦笑した。
「登山ってほどのものじゃないさ。七合目の周辺しか歩けないよ、その格好じゃあね」
一人ならば本格的な登山装備とテントを背負って、黒岳から隣の山々へと縦走しつつ、黙々と植物の写真を撮影するという。
重い機材を持って、川上はすたすたと歩く。その後ろをアイビーは、あくびを噛み殺しながらのんびりとついていった。
アイビーの知っている花といえば、春の桜。夏のひまわり。雨に濡れるあじさい。それから花屋で売っているバラや、白い百合の花。
そういう派手だったり大きかったりする花々と違い、川上が夢中になって撮影している高山植物は小さく、可憐である。
淡い色は土の色の中でつい見落としてしまいがちだ。川上はそうした花々に、レンズ越しに慈しみ深い眼差しを送っている。
彼の後ろを追いかけていると、やけにはっきりと風に揺れる木々の音や、空を飛ぶ鳥の鳴き声が聞こえてくる。東京でもスズメやカラスくらいは鳴いていたはずなのに、全然気にしたことなどなかった。
山の上から見る世界は彩り豊かだ。同じ自然の緑色であっても、一面同じ色という訳ではない。もっと繊細で複雑だ。濃く薄く。同じ種類の植物であっても、ひとつとして同じ色に見えることはない。
世界は神のキャンバスなのだ、と初めて思い知らされる。今まで生きてきた世界が、新たな意味を持って目の前に現れてくる。
「気持ちいいでしょう?」
川上の問いかけにアイビーは一瞬遅れて、「別に……」とだけ言った。見透かされている気がした。感じが悪いかもしれないが、川上は気にしている様子もなく微笑んでいる。
「お父さんもお母さんも、山が好きなのに?」
君は生まれながらの山の子だよ、と言う。今回川上の話が出るまで、母から山の話は聞いたことはなかった。父に至っては。
「……お父さんなんて、最初からいなかったもの。知らないわ」
生まれる前に死んだ父は、数枚の写真で顔を見たことがあるだけだった。川上はそっとアイビーの頭を撫でる。女性ではなくて、女の子にするような優しさだった。
「コーヒーでも飲みながら、話そうか。山で飲むコーヒーも、なかなかいいものだよ」
アイビーは黙って頷いた。
アイビーの両親と川上は、大学の登山部で知り合った。君のママは可愛くておっとりしていて、部のアイドルだったよ、とマグカップをアイビーに手渡しながら川上は言った。
「百合子さんと達也……アイビーさんのお父さんだね、二人は相思相愛のカップルだったから、部の男たちはみんな涙を呑んで諦めていたよ」
「川上さんも?」
アイビーの問いかけに、川上は笑って答えなかった。コーヒーを啜りながら、真面目な顔つきになって川上は話を進めた。
「達也がプロのクライマーになって、百合子さんと結婚して、君を授かった。ものすごく楽しみにしていたんだ、達也は。百合子に似た可愛い女の子が生まれるのを。でも」
アイビーはコーヒーに口をつけることもなく、黙って川上の話を聞いている。周囲は登山客で賑わっているが、二人のいる空間だけが、過去の記憶という被膜に包まれている。
「もうすぐ生まれるっていうときに、冬山登山に行った達也が、滑落した。日本アルプスだ。大学時代何度も登った、親しんだ山だったから油断したのかもしれない」
行方不明になって数日、遺体が確認された。そのときの母の嘆きようといったら、この世の終わりのようだった、と川上は言う。でもそう言う彼こそが今まさに、悲しい終焉を迎えているかのごとき顔だった。
「興奮状態になってしまったものだから、予定日よりまだだいぶ早かったのに、産気づいちゃってね。早産で君は生まれて、もしかしたら危ないかもって言われてたの、知ってる?」
アイビーは首を横に振った。あんたは早産で、お母さんも大変だったのよ、と言うときの母はいつも笑顔だった。愛する夫を亡くすという経験をしたにも関わらず、娘である自分にはまったく悟らせなかった。
「お母さん……」
アイビーの呟きに、川上はまた、頭をぽんぽん、と叩いた。
母は嘆き悲しんで、あの人がいないのなら生きていけない、と声を嗄らすまで泣いて、衰弱していった。母乳も出ない。子供をその腕に抱こうともしない。
このままじゃ駄目だ、と僕は思った。川上はそう語る。夫を失った悲しみを抱えながらも、生まれた子供のためにも君は生きなければ駄目だと、病室で泣いてばかりいる母に言った。
「この子は達也と百合子さんの、愛の証。確かに彼が存在していたということの証だ、って。この子を大切にすることが、達也への愛なんだ、って」
そう言うと、母はようやく赤子を恐る恐る抱き締めた。その目から流れた涙は、決して悲しみだけのものではなかった。
「それから娘の名前を考えてほしいって言われてね」
本題に入ったところでアイビーははっとした。そうだ、しんみりしている場合ではなかった。どうして川上が、自分に「アイビー」なんていう名前を付けたのかを知りたくて、こんなところまで来たのだ。
「先に言っておくけれど、別に冗談で提案したわけじゃない。ただ僕はね、家でだけで通じるニックネームにしたら? っていう風に提案したんだよ」
それがまさか、本名にするなんて思わなかったよ。大変だったね……と川上は肩を落とした。川上の言葉を聞いて、アイビーも「ああ……」と納得した。
おっとりしている母は、その実なんというか天然で、人の話を聞かないところがあるのだ。
「ニックネームにしても、なんで『アイビー』なんですか?」
思慮深そうな彼のことだ。「アイビー」という言葉には、何らかの意味があるのだろうと思えた。それを伝えるために、母は彼の元を訪れるように言ったのだろう。
川上は取り出したスマートフォンで、何かを検索した。それから画面をアイビーに見せる。
「それが、アイビー」
「これ?」
大きく映し出されたのは、緑色に密集した蔦植物だった。洋館の外壁を覆っている植物だ。楓の葉か、星の形に似ている。
「花言葉は、不滅の愛」
「不滅の、愛……」
アイビーは繰り返す。母の愛はいつだって、亡き父に注がれている。そして二人の愛を受け継いで生まれた娘の、アイビーに対しても。
アイビー、アイビー。母に呼ばれる度に、嫌な気持ちになって、文句を言いつつも二十年連れ立ってきた自分の名前に、そんな意味が込められているなんて知らなかった。
コーヒーを飲み終えた川上は、カップをしまうと再び撮影するのに、カメラを担いだ。アイビーもまた、すっかりぬるくなったコーヒーを口に運んだ。
母は、山の話を一切しなかった。大学時代山に登っていたこともアイビーは知らなかったし、父が登山家であったことも知らなかった。
家にある父の写真には一枚も、山を連想させるようなものは映り込んでいない。父が優しく微笑んでいる姿。大学の卒業式らしいスーツ姿で初々しく笑っている、写真の中の父親の年に、アイビーはもうすぐ追いついてしまう。
山は今や母にとって、父を奪った憎い存在だ。でも、父との出会いをくれたのも、山だ。アイビーはいつかこの山に、母と一緒に登りたいと強く思った。
この山で、川上と母と自分と、ゆっくりと父について話をしたい。アイビー自身には父の思い出などひとつもない。彼らの話が父の形となって、心に残るに違いない。
川上は一心不乱に写真を撮っている。命短い高山植物の一瞬のきらめきを、切り取っている。
川上は第一印象どおりの繊細な芸術家なのだろう。だが、被写体に向き合っている彼の姿はまさしく、真剣に山の生命と向かい合う、山男だ。
きっと父も、こんな男だったのだろう。
翌日、近くの温泉旅館に宿を移すアイビーを、川上は送ってくれた。初日とは違う妙な感慨を持って、アイビーは助手席に乗っている。
聞こえるのはカーステレオではなくて、川上の話す声。アイビーも笑って応える。川上の自宅から温泉街まではそんなに時間もかからずに、すぐに旅館に着いてしまった。
車から降りて、川上は言った。
「君が『まなみ』に変えたいのなら、僕は止めないよ。それに百合子さんも、何も言わないと思う。でも、君の名前に込められた意味を、もう少しだけ考えてほしいんだ、アイビーさん」
アイビーは小さく頷いて、それから深呼吸した。山からの風は爽やかで、夏の緑の匂いがした。
『拝啓 ゴッドファーザー様
秋も深まってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。山の木々は赤く色づいていますか? それとももう雪が降っているのかしら。
改まったお手紙なんて今まで書いたことないけれど、長い文章を書くときはメールよりもこっちの方がいいかな、と思って書いています。
先日は、ありがとうございました。帰ってきてから母と話をして、それから閉まってあった父の写真もたくさん見せてもらいました。川上さんの言ったとおり、母は父を今でも愛していて、私にアイビーっていう名前をつけたことは後悔していない、でもいらない苦労をさせちゃってごめんね、って謝ってくれました。
何度も母と話し合って、自分でも悩みに悩んで、結局私は、「まなみ」じゃなくて、「あいみ」という風に読み方を改めることにしました。もう手続きにも行ったので、これからは胸を張って、こう言えます。
私は鈴木愛美(あいみ)です。あだ名はアイビーなので、気軽にそう呼んでください、って。
川上さんにはお世話になりました。どうしてそんなによくしてくれるんだろう、と思って、もしかしたらあなたは母のことが好きなんじゃないか、って思いました。でも、本当は違うんじゃないかな。もしかして川上さんは、父のこと……
ううん、なんでもありません。今度は母と二人で、遊びに行きますね。就職活動が終わったら。今度は秋の紅葉を見に行きたいし、夏の山に一緒に登って、もっとたくさんの高山植物を私も見てみたいです。
そのときは、登山靴や服装もちゃんとして行きますから。どうぞよろしくお願いします。
敬具 鈴木アイビー』
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