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<4話
こっちこっち、と手招きされて、夏織は小走りに駆け寄り、「ごめん! 遅れて!」と手を合わせた。
「ほんとよ。自分で遊ぼうって呼び出しておいて遅れるなんて。相変わらずね、夏織」
明美はそう言って、紅茶のカップを小さなスプーンで掻き混ぜた。柄の先端には、小さな星のモチーフがついていて、可愛らしい。
四年間の学生生活をともにした彼女は、そのままだと過去の夏織の遅刻遍歴をすべて語りだしそうだった。夏織は「ごめんってばぁ」と言い、この店の会計は自分が持つことを約束した。
「当然でしょ」
夏織も紅茶を頼んだ。ポットで提供される紅茶は、店主が厳選した茶葉で淹れられており、茶菓子もつく。最近の夏織のお気に入りの店だ。
注文した紅茶を蒸らしている間も、お喋りは止まらない。大学生であったときは、毎日顔を合わせていても、あれだけ喋っていたのだ。直接会うのは三か月に一回程度であれば、その間に起こったことについて、報告することはたくさんあった。
とはいえ、話すのはいつだって、夏織の方だった。明美は今も昔も変わらず、研究がメインの生活を送っている。
だから、彼女の方から「どうなのよ、最近。めでたい話とか、ないの?」と水を向けられて、夏織は驚いて、口の中に入れたクッキーの欠片をぽろりと落とした。
「え。え。どうしたの、明美。珍しいじゃないの。そっちから言ってくるなんて」
いつだって、色恋沙汰を面白おかしく、ときには悲壮感を交えて話すのは、夏織の方だった。明美は夏織の話を推し量って、真剣に相談に乗ったり、適当に聞き流したりするのが、常であった。
まじまじと明美を見つめるが、特に前回会ったときと、特に変わったところはない。どころか、学生時代から彼女はほとんど変化を見せない。
もしかして、自分が話をしやすいように、まずは夏織に話を振ってみたということなのだろうか。
夏織は勘繰るが、どうもそうではないらしい。
履きすぎて自然とダメージデニムになっているパンツも、短い髪の毛も、眼鏡もいつも通りの彼女であった。化粧っ気もほとんどなく、そばかすが浮いている。
恋をしているのならば、そういったところは、改善されてしかるべきであろう。
「そりゃ、私たちも今年で二十九歳だしね。私はあんま気にしてないけどさ、夏織は昔から、専業主婦になりたーいって言ってたじゃん」
「もう! そんな若気の至り、今更……」
クレームをつけるが、明美は、「だって事実じゃんね」と笑う。
確かに、今でもなれるものならなりたい。言えばきっと、文也にも呆れられてしまうから、口にすることはないが。
夫の仕事が順調にいくだろうという確信があればこその、専業主婦だ。まさしく、究極の安定感。そこに夏織は、憧れを抱くのだ。
「で? どうなのよ?」
鼻息も露わに尋ねてくる明美に、少々の違和感を抱きながらも、夏織は報告した。
「実は今、結婚を前提にお付き合いしてる人がいるのよ」
声に優越感がにじむのを、抑えきれなかったかもしれない。夏織は明美の顔色を窺った。
彼女は純粋に驚いた様子で、矢継ぎ早に、「どんな人? いくつ?」と聞いてくるので、圧倒される。
同い年で、同じく市役所勤務。とても優しい人だ、と事実を端的に述べると、明美は「くぅ~」と呻き声をあげて、額を押さえた。
「かんっぺきじゃん! それきっと、専業主婦いけるって!」
「そうかな?」
紅茶を飲んで、夏織は気持ちを落ち着ける。
明美はこんなテンションで喋る女だっただろうか。学生時代だって、恋愛トークに積極的な方ではなかったのに。
まぁ、年を取って変わったということなのだろう。
夏織は明美に、惚気も愚痴もまぜこぜにして、文也との恋愛を語った。彼女が「もうやめて!」と言い出すまで、大いに。
普段なかなか話すことができないので、ストレス解消にもなった。
「でもさぁ。聞けば聞くほど、あんたの好みとは、かけ離れてるよね、その人」
眼鏡の奥から、明美が意味深な視線を送ってくる。頬杖をつき、斜めの角度からの流し目は、夏織の中のやましい部分を抉るようだ。
『ちゃんと、別れてるんでしょうね?』
明美からの無言の問いかけに、夏織は気づかぬふりをして、にっこりと微笑んでみせた。
すると、おかしな雰囲気は霧散して、明美も唇を綻ばせた。
約束どおりに夏織が会計をすべて支払い、外に出ると、二時間近く経過していた。
勤め先である大学に用があるという明美とバス停に向かいながら、名残惜しく話を続けた。
「そういえば今日って、デート、ドタキャンになったから私のこと誘ったんだっけ?」
「そうよ。お母さんが、倒れたんだって」
ふぅん、と明美は真顔で相槌を打った。彼女の「ふぅん」はいつだって、何かを考えていて、その答えは時として、夏織をそれまでとは異なる方向へと導くのだということを、経験則で知っていた。
夏織は、明美の思考を待った。考えがまとまった彼女は、「夏織」と真剣な声色で、名前を呼んだ。
「それって、本当なのかな?」
「えっ」
思いもよらないことを言われ、夏織は動揺を隠せなかった。母親が病気だというのが嘘だとしたら、いったいどういうことになる?
「さっきの話だとさ、彼氏、弟いるんでしょ? 大学生の」
「うん」
「それで、長男をわざわざ呼ぶかなぁ」
大学生にもなれば、ある程度のことは何でもできるはずだ。わざわざ家を出た長男を呼び戻す理由には、当たらない。
弟一人で手に負えないのならば、病院に行って医師の指示を仰ぎ、入院でもなんでもすればいい。
緊急で呼び出されて、連休中ずっと実家で母親の世話をしなければならないなんて、おかしいのではないか。明美は主張した。
「嘘だとしたら、なんだってのよ」
明美の目が三日月のように細められた。彼女は夏織の耳元に唇を寄せて、吐息交じりに囁く。生暖かい息が耳たぶに触れ、ぞわりとした。
「う・わ・き」
わざわざ一音ずつ切って、明美は言い聞かせる。
「男は浮気する生き物だってこと、夏織、嫌ってほど知ってるでしょ?」
夏織が一途に彼のことを想ったとしても、相手がそうとは限らない。そんな経験、何度だってしてきた。戻ってくる男もいれば、戻ってこない男もいた。そして、何度も同じことを繰り返す男も。
「そんな……」
あんな純情な男でも、魔が差すということが、あるのだろうか。
愕然とした夏織に、明美は「逃がすんじゃないわよ」とだけ、忠告をした。
>6話
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