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<5話
逃がすな、と明美は強く主張したが、そもそも文也のような人間が、他の女にふらっと来たようなことがあるとしたら、それはもう、本気なのではないか。
本当に私でいいの?
他に誰か、好きな人でもいるんじゃないの?
なんて、そんなこととてもじゃないが聞けない。
疑っているというだけで、文也のことを深く傷つける。結局嫌われて、別れようと切り出される可能性は高い。
文也は繊細で、潔癖な男だ。
例えば、二人で話しているときに、「映画でも見に行こうか」という話になった。夏織は「なら」と、話題の恋愛映画のタイトルを口にした。
スマートフォンで映画のあらすじや評判を読んだ文也は、眉根を寄せて、不快感を露わにした。
不倫、セックスフレンド、禁断の関係。映画の公式サイトにも、レビューサイトにも、そんな刺激的な単語が躍っていた。
『こんなの見たいの?』
馬鹿にしたわけではなく、自分にはまるで理解できないという顔で、文也は言った。夏織は空気を読んで、「周りが面白いよって言ってただけだから」と言い訳をした。結局、見に行くことはなかった。
浅倉文也は、そういう男なのだ。
不用意な発言はできない。夏織は結局、沈黙を選び取り、連休の残りも悶々として過ごした。
「古河さん。これ、コピーしてまとめておいて。午後の会議に必要な資料だから。十部。よろしくね」
窓口対応の順番を終えて、デスクに戻ってきた夏織を出迎えたのは、百合子であった。
連休明けからこちら、百合子の態度は普通、のように見える。張り切って仕事に打ち込み、失恋を振り切ろうとしているのかもしれなかった。
睨みつけられることもなく、しかし、夏織はやはり緊張を強いられながら、資料の束を受け取った。
「わかりました」
夏織の返事を聞き終わる前に、百合子はすっと席を外して窓口へと向かった。
資料を作成し終えて課長のデスクに置き、昼休憩の時間になる。百合子とは時間がずれているので、文也と食堂で落ち合った。
彼はまだ、百合子との一件を気にしていて、夏織に「大丈夫?」と声をかけた。
「今のところは」
あまりにも百合子が普通なので、それがかえって不気味だ。嵐の前の静けさ、という奴だろうか。
夏織の不安を和らげるためか、文也は唇を緩めた。
「何かあったら、ちゃんと言って。僕がきちんと、君のことは守るから」
「文也くん……」
そっと息を吐きだすように、夏織は彼の名前を呼んだ。思わず胸が、きゅんとなった。
今まで付き合ってきた男たちは、一人もそんなことは言ってくれなかったし、言われたとしても、「何言ってんの」と呆れてしまっていただろう。
こういう、少女漫画のヒーローのようなセリフを言っても、嘘くさくならないのは、文也の人徳の賜物であろう。
「うん」
夏織は幸せな気分のまま、ランチを終え、デスクに戻った。手早く準備をして、窓口の百合子と交代をする。
「お疲れさまです。いってらっしゃい」
夏織が声をかけても、百合子は目配せをするだけで、挨拶を返すことはなかった。面と向かって攻撃されたわけではないが、やはり感じ悪い。
まぁでも、この程度なら、文也に相談するまでもないか。
夏織はそのまま、午後の業務を進めた。三時頃に課長を始めとした何人かが、会議室へと移っていくのを、横目で見た。
しかし、課長はすぐに戻ってきて、窓口対応をしていた夏織に、「ちょっと」と声をかけてきた。
「今日の資料をコピーしたの、古河さんだって聞いたんだけど?」
「はい……何か?」
課長は大きな溜息をついて、じとっとした目つきでこちらを見た。
「君ねぇ。いくらなんでも、初歩的なミスだろう。二枚、足りないよ」
嘘、と言いながら、課長がわざわざ持ってきた、蛍光ペンで「原紙」と書かれた元の資料を、ペラペラと捲って枚数を数えた。
夏織がコピーしたときには、確かに八枚だった。なのに今、十枚になっている。
「なんで……」
「なんででもいいよ。人数分、至急追加でコピー」
該当のページを指して、課長は夏織に押し付ける。ここまで来たのなら、自分でやればいいのに。そう思ったのをぐっと堪えて、夏織は早急にコピーをした。
終わる頃には、課長は会議室に戻っていた。ノックをして、入室許可を得る。
会議に参加しているのは、役職者ばかりだった。夏織は素早く全員の元に、直接追加のコピーを届けると、「大変申し訳ございませんでした」と、深々と頭を下げた。
「ああ、いいよいいよ。帰って仕事に励みなさい」
課長の声に顔を上げて、夏織は凍りついた。
冷たい視線を向けられていた。中年の男たちの唇は、にやにやと歪んでいる。
恋愛だのなんだのと、うつつを抜かしているからこうなる。
彼らの目はそう言っている。
「申し訳、ありません」
もう一度だけ謝罪の言葉を繰り返し、夏織は会議室を退室した。
彼氏ができて浮かれている、仕事のできない女。そんなレッテルが、自分に貼られてしまったことを、夏織は身をもって知る。
重い責任はいらないし、昇進にもたいした興味はない。けれど今まで、仕事に手を抜いたことはない。言われたことは、きちんと仕上げてきたつもりだ。
なのにどうして、こんなミスを……。
肩を落としたまま、とぼとぼと窓口に戻ろうとした夏織は、顔を上げて、はっとした。
百合子だ。
百合子が、こちらを見ている。
他にも夏織の様子を、何事かと見守っている人々はいる。すぐに逸らされてしまったが、百合子の目には、そうした人たちとは違う色が、滲んでいた。
哀れみよりも、好奇心。そして嘲笑。
瞬時に夏織は、理解した。百合子だ。百合子しかいない。彼女から手渡された資料は、最初から二枚、抜かれていたのだ。
そして夏織の目を盗んで、彼女はそっと、抜き取っていた二枚の資料を、戻したのだ。
やられた。
夏織は唇を噛みしめて、百合子の丸い背中を睨みつけた。
何もなかったように、淡々と仕事をしながら、彼女は夏織の評価を貶めるための策略を練っていたのだ。
よっぽど肩に掴みかかって、問い質してやろうと思ったが、夏織にはできなかった。
証拠がないのだ。
いくら夏織が、百合子にはめられたのだと主張しても、実際に資料の原紙は今、十枚揃っている。百合子はいくらでもとぼけることができるし、強く言えば言うほど、おそらく非難は夏織に集中する。
今は、耐えるしかないのだ。
胃がキリキリと痛い。それどころか、吐き気までしてきて、夏織は傍の壁に寄りかかり、大きく息を吐いた。
>7話
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