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<(23)
その日は、妙だった。いつも琥珀を連れ出す連中は野卑な男たちばかりだったというのに、上等な着物に身を包んだ、どう見ても文官である男が、牢を訪れたのである。
彼は琥珀に何も告げず、外へと出した。向かう先は拷問部屋ではなく、風呂であった。薄汚れた布で拭うことしかできていなかった独房生活である。いくら石鹸を擦りつけても、髪も体も、なかなか泡立たずに難儀した。
何回か洗浄を試みて、ようやく流したあとの湯が黒くなくなったところで、風呂から上がる。その間、ずっと浴室の外で待機していた文官が、白い服を寄越した。白虎族の色だから馴染み深いものだが、琥珀はその装束に込められた意図に気づく。
死に装束だ。とうとう処刑が決まったのだろう。王族の殺人未遂は、公開処刑と相場が決まっている。醜い死体を晒すとはいえ、薄汚れた肉体を、市民および王の眼前にさらすのはよくないという判断で、身を清めさせられたのだ。
琥珀は地下牢に戻されることなく、離宮の一室に監禁された。寝台があって、ホッと安堵する。冷たい床で寝ることは、もうないのだ。
ここに連れてきた官吏は何も言わなかったが、世話係を命じられた若者は、たいそうお喋りであった。よくもまあ、それだけ話すことが思い浮かぶと感心するほどに。だいたいは、琥珀に対する悪口であった。あるいは、「死にぞこない」と紫嵐を馬鹿にするようなことを言う。
自分のことを言われても、痛くもかゆくもないという顔をしていた琥珀は、紫嵐についてだけ、激怒する。栄養失調でぼさぼさになり、ところどころ剥げている尾をゆらりと揺らし、牙を剥く。目をぎらりと光らせると、相手は龍の本性を持つはずなのに、「ひっ」と悲鳴を上げて、どこかへ逃げてしまった。おそらく、次にやってくる世話係は別の人間に交代しているだろう。
最後の一日だが、特にしたいことはない。辞世の詩でも書くべきかと考えたが、自分には文才がなかった。木楊や両親に感謝と忠告の手紙を送ることも考えた。だが、握りつぶされるに違いない。寝台の上にごろりと横になり、琥珀は逆鱗を取り出していた。
自分が最後にできるのは、これしかない。
夜になって、どう人目をかいくぐったのか、遼雲が訪れた。立ち上がる気力もなく、寝台に腰を下ろしたままで迎える。
「最後に会えて嬉しい。紫嵐によろしく頼むよ」
ことさらに明るく振る舞う琥珀に、彼は痛ましい目を向ける。
「そんな目で見るなよ」
俺がかわいそうな奴みたいじゃないか。
笑う琥珀に、遼雲は頭を下げた。
「俺は、あんたを救うことはできない……!」
搾りだした声が切なく、琥珀は子どもにするように、男を撫でた。大丈夫大丈夫、お前は悪くない。囁き、触れていくと、遼雲は顔を上げた。精悍な顔立ちに、覚悟を決めたのだと悟る。
琥珀は握りしめていた逆鱗を、彼に押しつけた。遼雲は首を横に振る。
「これは、あんたのものですよ。一生にひとり、青龍族が選んだひとです」
逆鱗の誓いによって結ばれた伴侶が死んだとき、鱗はそのまま墓に収められるのが一般的なのだという。だが、琥珀は紫嵐への返却を望んでいる。
この鱗には、琥珀の祈りがこめられている。
紫嵐は青龍族でなければ意味がないと言っていたが、琥珀はそうは思わない。最初は気休め程度になればそれでいいと思っていたが、祈りが真に迫っていくうちに、鱗が変化していったことに気がついた。
黒かったのが、徐々に白い部分が増えていく。温かさを増していく。
「俺はずっと、紫嵐の回復だけを祈ってきた。だから、返してほしい。どうか目を覚まして、遼雲、お前と一緒に国王を打倒して、青龍国を変えて」
琥珀が死ねば、その首を切り落として白虎国へと宣戦布告をするに違いない。前面衝突だけは避けてほしい。あの美しい故郷が破壊されると考えると、身を切るように心が痛い。そうなる前に、この国に革命を起こしてほしい。他の王子たちに紫嵐が劣るわけがないし、遼雲もなかなかの実力を持っている様子だ。最も王にふさわしいのは、紫嵐だ。
事故で番った伴侶のことなど忘れて、王として立ってほしい。黄王となった引き換えの願い事ではなく、自分の力を振るい、自分を虐げてきた相手を蹴散らしてくれ。紫嵐はそれができる男だと、信じている。
毒なんかに、負けるな。負けたら駄目だ。戻ってこい。俺の、唯一の龍……。
「それが、俺の願いだ。叶えてくれるな?」
有無を言わさぬ口調だ。琥珀の目の中に諦念ではなく希望を見て取った遼雲は絶句する。本当に、自分の命は捨てる覚悟なのか、と。小さく頷く琥珀に、「わかりました」と頭を下げ、彼は部屋から出て行った。
もう、大丈夫。紫嵐はきっと、目を覚ます。白銀に変わりつつある鱗が、癒してくれる。
ぽろり、琥珀の目から雫が落ちた。
これが、自分の儚き身を憂えて流す、最後の涙だ。明日は決して、誰の前でも泣いたり喚いたりしない。
琥珀は決意を秘めた胸を、ぎゅっとつかんだ。
もうそこには、何もないのに。
明けない夜はない。どんなに明けてほしくない夜であっても、平等に朝は訪れる。
これからの人生を謳歌する人間であっても、今日これで生を強制的に終了させられる人間であっても。
琥珀は目を覚ました。正確な時間はわからないが、とうに太陽は昇り始めている。耳をすましても、外の音は拾えなかった。
もう二度と使うことのない寝台の上を片づけて腰掛、呼び出されるのを静かに待っていた。
目を閉じていると、思い出すのは紫嵐のことだった。
大きな体の龍の姿。仏頂面で、「不本意だ」という雰囲気を醸し出しつつも、琥珀の隣にいてくれたこと。木楊への態度を本気で怒られたこともあった。大人の姿だけじゃない。小さな頃、「ラン」と呼んでいた、女の子のように可愛らしい子どもが泣いているところも思い出して、琥珀は自然と唇を綻ばせていた。
最後に見た彼の顔は、苦しみ、驚いていた。まさかお前が、と、疑いの気持ちもあったに違いない。彼本人に弁解することは叶わないが、弟の遼雲がきっと、意識を取り戻した彼に説明をしてくれる。
それはきっと、琥珀が命を落とした後のことだろう。
ふいに腹の虫が鳴いて、琥珀は目を開け、ひとりで声を上げて笑った。
こんなときでも腹は減るのだから、人間というのはおかしなものだ。
迎えが来たのは、それからしばらくしてのことであった。乱暴に扉を叩く音に応えると、武装した男たちに守られた奇劉が立っていた。
瞬間、頭が沸騰しそうになる。だが、琥珀は睨みつけるにとどめた。
今回の事件の黒幕は、哀れんだ目を向けてくる。ただし、唇には嘲笑が隠せていない。周りにいるのは彼の信奉者ばかりで、取り繕う必要もないのだろう。牢番として琥珀を担当していた遼雲が、一番後ろに控えていることに琥珀は気がついたが、反応をすることを避けた。
「白虎族の琥珀。お前はこれから、市中引き回しの上、火刑に処される。何か言い残すことはあるか?」
斬首を想像していたため、「火刑」という宣告にはぞくっとした。苦しみを長引かせるつもりなのが、奇劉の顔からわかって、なんと残忍な男なんだろうと思った。
「恐れながら奇劉殿下。あなたは何人の罪なき者を亡き者にしてきたのでしょうか。自分の手は汚さない、卑怯者」
奇劉の眉がぴくりと跳ね、周囲の取り巻きは激昂して、琥珀に手をあげる。だが、王族らしく優雅な手つきで奇劉は遮ると、「面白い冗談を言う。私は卑怯だと?」と、まったく愉快だと感じていない顔で言う。
「ええ。紫嵐を直接手にかけるでもなく、毒を盛った。しかも、自分の手ではなく、俺に毒入りの菓子を手配して、食べさせたんです」
「毒は女のものだと馬鹿にされてきましたが、誹りを受けるべきは、俺ではなくてあなただ。自分ひとりの力じゃ、何も成し遂げられないかわいそうな第四王子!」
よくもまあ、これだけ口が回るものだと我ながら思った。目の前に、自分を陥れた存在がいるのだ。この場で斬られるわけにもいかないから、殴りかからないだけで、言ってやりたいことは山ほどある。
琥珀は最後尾の遼雲にそっと目配せをした。見下してきた自分に馬鹿にされて、奇劉がどんな反応をするのか、何を口走るのかをしっかりと聞き届けるように、と。彼は紫嵐と似て聡明だろうから、きっと琥珀の意図をわかってくれている。
案の定、奇劉は琥珀に接近した。ひとりではなく、最も屈強な護衛をべったりと隣に貼りつけてのことだから、「女々しい」に説得力が生まれてしまっている。琥珀は笑いそうになった。彼は持っていた扇を閉じた状態で、琥珀の顎を掬い上げる。
「調子に乗るなよ。雑魚が。お前みたいな阿呆には、毒の有能さがわからんのだ」
わかりたくもない。琥珀は黙って睨みつける。ふん、と鼻で笑うことも忘れなかった。
「自分の拳を振るい、汚名をかぶる勇気もない弱虫め」
自分は実際、力を振るって名前を奪われることになっても、ランを守った。その自負がある。
扇で頬を殴打された。硬い骨の部分が強く当たって痛みを覚えたが、これから火であぶられると思えば、些細なものである。それよりも今は、奇劉を怒らせるだけ怒らせて、あれこれと語ってもらわなければならない。
自分がいなくとも、紫嵐が青龍国で安心して暮らしていけるような国にするため。そのための犠牲になるのなら、構わない。
何度も殴打され、両頬が腫れることになっても、琥珀は悲鳴ひとつあげなかった。まっすぐに奇劉の目を見つめる。できるだけ、感情をあらわさないようにして。そうすると、琥珀を不気味に思った奇劉が次第に精神を乱されていく。自身の頭を掻きむしり、そのまま何本も束にして引きちぎった。
「どうしてお前たちは私をそんな目で見る!? 私は、私は兄弟の中で一番賢く、王たる器だというのに! 身体が弱いというだけで、なぜ、なぜ……!?」
両手で顔を覆い、それから再び現れたのは、蛇の目であった。狡猾さよりも、執念深さを感じる男のほの暗い情念をそのまま写し取ったものだ。
「お前たち?」
「お前や紫嵐の母親だ! それから馬鹿な女! 父上の手つきだとたばかって、これ以上、王の息子はいらんというのに……!」
部屋の隅、遼雲が息を飲んだ。彼の母親のことである。遼雲は身内の存在を偽って、国に奉仕をしていた。もっとも、下っ端兵士である彼のことなど、奇劉たち王族は、気に留めたこともないだろうけれど。
ここで遼雲の母のことを言うとなれば、すなわち。
「……その女ふたりに、毒を盛ったと?」
琥珀の問いに、奇劉は後先考えずに――考えたところで、琥珀は死ぬ運命だ。周りを固めているのは、自分の思い通りに動く駒たちだと、彼は思っている――嘲笑し、肯定した。
自分は関与していないと言っていたのは嘘だったのだ。少年と呼べる年であった彼が、邪魔な妃相手に自らの判断で毒を盛ったのである。
「許されるはずがない。あんたは天帝の罰を受けるぞ」
「罰? 天帝? ははは、そんなものが本当にいるとでも?」
琥珀は目を伏せた。白虎国、親元でぬくぬくと育ってきたときには、琥珀も同じように思っていた。天帝も黄王も、実際にいるわけがないと。けれど、琥珀は見てしまった。黄王の巫女を務める朱倫が、普段の彼女とは似ても似つかぬ表情と口調で、黄王の意志を告げるところを。
だが、この男に何を言っても無駄だろう。あれは実際に目にしたものでなければ、神秘性を感じられない。琥珀が口を噤んでいると、それ以上の言葉を持たぬと判じた奇劉は、高笑いをした。
「あと数刻の命だ。民が待っているぞ。あのお可哀そうな紫嵐殿下を殺した男が、火あぶりになるのをな!」
と、来たときと同じように、兵をぞろぞろと引き連れて出て行った。
最後尾につけた遼雲が、ちらりとこちらを振り返る。琥珀は口の動きだけで、「頼んだ」と告げた。頷く彼は、ひらり手のひらをこちらに振った。おそらく、逆鱗は紫嵐のもとに返したという報告だろう。
自分亡きあと、黒麗とともに紫嵐を支えてくれ。
琥珀は刑が執行されるまでのわずかな間、目を閉じて祈りを捧げる。逆鱗を通じて、どうかこの想いが彼に伝わるように、と。
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