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<12話
「……ちょっと」
聞き慣れない声に、夏織は文也から離れて、顔を上げた。
部屋に突如現れたのは、文也よりも背の高い男だった。ぬぼーっと突っ立っている様子に、夏織は背筋に冷たいものを感じた。
「兄さん、俺の家でいちゃつくのやめてよ」
文也への呼びかけで、この青年が彼の弟の理だということが判明する。悲鳴を上げるのをとっさに我慢してよかったと思った。
ぼそぼそと早口なのは、典型的なオタクの特徴だ。前髪は長く、目を隠すほどだ。ファッションではなくて、ただ美容院に行って切るのが面倒なせいだということは、一目瞭然だった。
背筋を伸ばしていればいいのに、理は猫背だった。それでもひょろりと背が高いのがわかる。
「おかえり、理」
理はコンビニエンスストアのビニール袋をぶら下げていた。
夏織は立ち上がるタイミングを失っていて、下から彼を見上げる形になっていた。理が見ているのは、文也の方ばかりで、夏織はそもそも存在しないものとして扱われている。
文也は立ち上がり、夏織の手を取った。その手を借りて、夏織も起立した。こうして見ても、理は背が高い。
「古河夏織さん。話しただろ?」
よろしくお願いします、と夏織は軽く頭を下げた。そこでようやく、理はしっかりと夏織の姿を視界に捉えた。
そのとき夏織が感じたのは、なぜかわからないが、恐怖だった。ぞくりと背筋が震える。
ただただ不気味だった。祝福しているわけでなく、兄の妻になる女を値踏みする、下種なものでもない。
冷酷で、感情の籠らない目に、夏織は凍りついた。しかし、隣の文也はその様子に気がつかない。
文也は大学での学問について尋ねていた。ぽつぽつと呟くように答える理の話は、夏織にはちんぷんかんぷんだった。
文也も夏織と同じく文系だから、理の専門分野については無知のはずだが、彼は弟の話を頷きながら、ふんふんと聞いていた。
愛想のない声音だが、まともに会話をするだけ、文也にとって理は、母親よりも心を許せる相手なのだということは、わかる。
しかし、夏織は理の方が理解できなかった。
怖かった。母親と違い、文也が弟を可愛がっているから、夏織も関わらざるをえないのが、憂鬱さを増す。
強張った夏織の心と身体をほぐしたのは、やはり文也の手だった。彼に肩を優しく抱かれて、ようやく夏織は、理の恐怖から逃れてほっとした。
「そろそろ帰ろうか。母さんに見つかったら、面倒だし」
玄関で靴を履いた背中に、声をかけられた。夏織さん、と名を呼ばれた。一瞬気づけなかった。
「あ、はい」
彼が兄ではなく、夏織を呼び止めるとは思わなかった。
理は変わらず、感情の籠らぬ目で、「SNSって何か、やってますか?」とぼそぼそ喋った。
「え……えぇ」
「使い方によっては、危険な物ですからね……気をつけて」
言葉だけを捉えるなら、それはこれから家族になる人間に対する不器用な思いやりに聞こえる。
実際、文也はにこにこ笑って、「理はそういうの詳しいから、何か困ったことになったら相談するといい」と言った。
しかし、夏織には見えていた。気をつけて、と告げた理の唇が、奇妙に歪んだ。嘲笑だ。夏織はそう感じた。
「理も人見知りでさ。ごめんね」
あなたの弟、なんか変よ。
夏織は文也に言えなかった。ううん、と首を横に振って、「それなら仕方がないわよ」と、棒読みにならないように注意して、文也を慰めた。
>14話
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