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<11話
家の外に出ると、文也は「行かない」と言った離れに、どんどん近づいていった。
「ちょ、ちょっと! いいの? お義母さんに怒られるわよ?」
この声も母親に聞かれたらアウトだ。夏織は声を潜めて、文也の行動を咎めた。だが、文也は「いいんだよ。元々僕が住んでた実家なんだから」という理屈で、こちらも鍵のかかっていない離れのドアを開けた。
家に上がり込み、迷うことなく彼は、二階へと向かう。急な階段に夏織が閉口していると、文也は察し、「君はそこで待ってて」と言った。
軽快な調子で階段を下りてきた文也の腕の中には、アルバムが数冊あった。卒業アルバムの類ではなく、家族アルバムだ。
アルバムを広げながらの文也の話を聞けば、彼がこの家に住んでいたのは、約二年と短い期間であったことがわかる。都内の大学に進学した文也は、寮生活を送った。
その後、就職してこちらに戻ってきたのは、家族のためだったというが、彼はマンションで一人暮らしを続けた。その理由も、あの母親を見ていれば、よくわかった。
現在、この離れには、大学生の弟が一人で生活している。
弟のことを話す文也の表情は、母親を相手にしていたときとは異なり、明るかった。仲のよい兄弟なのだろう。
「理は大学で、コンピューターに関する研究をしてるんだ。僕にはよくわからないんだけどね」
弟の通う大学は偶然にも、夏織の母校でもあった。学部こそ違うが、こじんまりとした地方大学なので、キャンパスは一つしかない。
懐かしい話が聞けるかもしれない、と言った夏織に、文也は表情を曇らせて、首を横に振った。
「理は人見知りなんだ。特に、女性に対しては」
どうやら浅倉家で人当たりがいいのは、文也だけのようだ。彼は慌てて、「まぁ、母さんほど感じ悪くはないけれどね。君のことを話したら、ちゃんと『おめでとう』って祝ってくれたから」と付け足した。
その理の姿はなかった。リビングは、冷房がつけっぱなしなので、きっと、近所のコンビニにでも行っているのだろう。
文也が捲ったアルバムを、夏織は興味津々に覗き込む。
「わぁ、可愛い」
あの母親が、きちんと息子の写真を整理しているのか気にかかったが、幼い頃の写真は、きちんとアルバムに収められていた。
手書きで「文也、生後六か月」と丁寧にキャプションも書かれており、ふくふくした美味しそうな頬っぺたの赤ん坊に、夏織は目を奪われた。
そしてふと、会っていない家族の存在に、夏織は気がついた。幼稚園の入園式や卒園式、小学校の入学式のときに、めかしこんだ文也の隣に立っている、今の文也によく似た男性の姿だ。
「あの、文也くん」
「うん?」
写真の中の男性を指して、思い切って尋ねた。
「……お義父さまは?」
言ってから、後悔した。それまで懐かしい思い出に目を細めていた文也の顔が、明らかに強張った。地雷だった。
ごめんなさい、と謝ると、彼はふっと息を吐いた。
「ああ、いや、いいんだ。話してなかったよね。ごめんね」
力ない笑顔で語られた真実に、夏織は言葉を失った。
「父親は、僕が高校一年生、理が小学校の二年生のときに失踪してしまってね」
姿をくらましてから七年経つと、失踪宣告が適用され、死亡したことにできる。その期限はゆうに過ぎていて、文也の父親は、すでに亡き者とされていた。
なんて言葉をかけていいのかわからずに、夏織はアルバムに目を落とした。
息子の晴れ姿に誇らしげな笑みを浮かべている男性は、誠実そうで真面目そうで、決して自ら蒸発するような人には見えなかった。
しんみりとした空気に、無言でアルバムを捲り続けていると、ちょうど弟の理が生まれた辺りの年齢で、文也の写真が激減したことに気がついた。
単独のものはゼロになり、理と一緒に映っている写真しか、残されていない。小学校の卒業式の写真はなく、そもそも式自体がなかったかのようにすら見える。理の写真はすべて残っているので、なおさらおかしかった。
母親のあの態度にも、少し納得がいった。勿論、許されることではないと思うし、理由までは理解できないが、彼女はとにかく弟にのみ愛情を注ぎ、兄である文也のことはないがしろにしたのだ。
おそらく、夏織が離れに足を踏み入れることを嫌がったのも、愛する次男と得体の知れない女が、顔を合わせるのが気に入らなかったからだろう。
「お父さんは、文也くんに優しかった?」
ぽつりと尋ねると、文也は寂しそうに微笑んだ。そうだね、と言ったきり、黙りこくる。
切なさと愛しさが込み上げてきて、夏織はぎゅっと、文也に抱きついた。初心(うぶ)な彼は、「か、夏織さん!?」と上擦った声を上げたが、夏織は彼の着ているシャツに、顔を擦りつけた。
自分を可愛がってくれた父親が失踪し、弟ばかりを愛する母親の元に残されたとき、彼はどんなに悲しかっただろう。心細かっただろう。
高校一年生は、大人じゃない。まだまだ子供だ。
「幸せな……幸せな家族になろうね」
夏織の言葉に、文也は「うん」と頷いた。手を夏織の頭に載せて、子供をそっとあやすように、優しくぽんぽんとリズムを取った。
>13話
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