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<10話
七月に入り、夏織は退職した。手渡された花束は、皆がカンパして購入したものだと言っていたが、その「皆」の中に、百合子は入っていないのだろう。
それにしても、悪阻がこんなに辛いなんて思わなかった。退職していて本当によかったと思う。
市役所には多くの人間が訪れ、彼らの体臭が混じり合った臭いは、夏織の喉を胃液で焼くのに十分な破壊力だった。
そんな状態だったので、互いの両親に挨拶に行くのは、遅くなった。
古河家では、文也は緊張しながらも「お嬢さんを僕にください」の様式美をこなし、父は鷹揚に頷いていた。
娘しかいない父は、義理の息子ができることを、とても喜んでいた。しかも相手が、好青年としか言いようのない文也だったので、歓迎の意味を込めて、彼に酒をじゃんじゃん飲ませた。
酔った文也は潰れ、その日は実家に泊まることになった。彼は恐縮していたが、あれは父が全面的に悪い。謝るのは夏織の方だった。
そして今日、バスに乗ってやってきたのは、文也の実家であった。
最寄りのバス停から徒歩十分強の距離を、文也は夏織の身体を気遣って、タクシーを止めた。車に揺られれば、すぐに目的地にたどり着く。
「ここ?」
夏織が不安な目を文也に向けてしまったのも、仕方がなかった。夏織の実家と比べて、高い塀でぐるっと囲まれた浅倉家は、「屋敷」とか「邸宅」と言った言葉がふさわしいものだった。
夏織は古河家の慎ましい一軒家を思い返した。両親がやっとの思いで購入したマイホームだが、文也はあの家を見て、どう思ったのだろうか。
本当は、みすぼらしい家だと、馬鹿にしていたのではないか。
「そうだけど……どうかした?」
「ずいぶん大きいな、と思って……」
劣等感を覚えているのだとわからないように気をつけて、夏織は答える。文也は「なんだ、そんなこと」とばかりに笑った。
門扉を開けて塀の中に足を踏み入れると、一軒だと思っていた邸宅の脇には、もう一軒、少し小ぶりなサイズの家が建っていた。
「母屋はもともと、祖父母が暮らしていてね。僕ら一家は、こっちの離れに住んでたんだ」
その祖父母はすでに亡く、生前贈与などを駆使して節税に努めて、ぎりぎりこの邸宅を維持しているのだと言う。
文也は勝手知ったる実家だからと、チャイムを押さずにドアに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
「母さん」
玄関先で大きな声で呼びかけるが、応答はない。夏織は隣に立つ文也の顔を見上げる。夏織の父に挨拶をしたときとはまた違う緊張が、彼の表情からは見てとれた。
家のサイズに見合った長い廊下の先は、暗い。気分のいいものではないな、と夏織は思った。大きな家であればこそ、そこに温かみがなければ、怖い。
その点、古河の実家は両親との三人暮らしで、小さくても毎日が明るく、夏織はあの家で生まれてよかったと心底安堵した。
文也はもう一度だけ、「母さん」と奥に呼びかけるが、反応はなかった。諦めて、勝手にスリッパを取り出して、夏織の前にも置いた。
ぺたぺたと廊下を歩く。掃除は行き届いてはいるが、やはり薄暗い、じめじめとした印象は拭えなかった。
最奥はトイレと風呂場だと教えられ、文也は途中にある部屋の襖に手をかける。いよいよご対面だ。夏織は勇気をもって、顔を上げた。
部屋の中の暑い空気が、もわりと押し寄せた。途端に、気持ち悪さが込み上げて、夏織は小さく呻き、よろめく。文也が察して、腰を支えてくれたので倒れることはなかった。
七月の半ば、夏はぐっと気温が上がるこの街で、文也の母はエアコンもつけずに、扇風機だけで過ごしていた。
さすがの文也も我慢できなかったようで、怒った口調で「母さん! 冷房つけないと、身体壊すって言ってるだろう!?」と言いながら、壁に設置されたエアコンのスイッチを入れた。
座れ、と促されることもなかった。文也の母親は、夏織たちの方を見ようともせずに、テレビをずっと見ていた。バラエティ番組だったが、にこりとも笑わない。
おそらく、テレビが見たくて見ているわけではないのだ。夏織のことが気に入らなくて、目も合わせたくない。ただ、それだけなのだ。
早速の嫁姑問題にぶつかって、夏織は嘆息する。救いは、文也が母親と妻の両方にいい顔をしようとする、愚かな男ではないということだった。
テーブルの上に投げ出されたテレビのリモコンを取り、文也はテレビの電源を切った。元の位置に戻さずに、自分の手元に持ったままにして、彼は畳に腰を下ろす。夏織も倣って、彼の隣に正座した。
ようやく母は、自分の息子に目を向けた。若い頃はきっと美しかったのだろう容貌は、皺とシミによって衰えている。
年齢は、夏織の母親も同じくらい。皺もシミも等しくあるが、決定的に見た目の年齢が違っている。
文也の母親を醜悪に見せているのは、老いではなく、文也を軽蔑し、夏織を値踏みするような、卑しい目のせいだった。
「お前に言われなくたって、自分の身体のことは自分で面倒見るよ」
彼女はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。ぴたっとしたシャツのせいで、肉が段になっているのが、後ろ姿だけでよくわかる。
台所に引っ込んだ母親が持ってきた麦茶のグラスは、自分一人のものだけだった。
息子を自分から引き離す夏織を疎んじるのならば、わかるが、文也まで冷遇される理由がわからなかった。
文也は母の行動に呆れたのか、とっととやるべきことをやって帰ろうと決め、夏織の紹介をした。
「こちら、古河夏織さん。僕たち結婚するから」
「か、夏織です。これ、心ばかりの物ですが……」
この日のために悩んで購入した、和菓子の箱をテーブルに置いた。がさがさとその場で豪快に包みを開けると、彼女は面白くないという顔で、麦茶を飲み干す。
「羊羹、ねぇ。年寄りには和菓子でも与えときゃいいっていうんだろう」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「母さん! 何を持ってきても文句言うくせに、いつも結局は食べるんだから、黙って」
何を手土産にすべきか文也には相談したのだが、どうせ何を持って行っても同じだから、好きな物にすればいいと言われた。そのときは、なんて頼りにならない人なんだろうと思ったが、彼の言葉どおりだった。
息子の苦言を痛くもかゆくもないという顔で聞き流して、彼女は実際には、羊羹の箱を夢中で見つめている。
「とにかく、もう結婚することは決まってるから。それだけ言いにきたんだ。もう、帰るよ」
一分一秒でもこの家にいたくない。夏織が文也の服の裾をぎゅっと掴んで引っ張ると、彼も頷いて、立ち上がった。
文也がテレビのリモコンをテーブルに置き直すと、彼女はすぐに、再びテレビをつけた。
冷房はようやく利き始めたところだったが、一刻も早く立ち去りたい。
部屋を出ようとした夏織たちの背に、母親の声がかけられた。
「離れには、行くんじゃないよ」
と。
文也は唇の一方の端を持ち上げて笑った。彼がそんな表情を浮かべるなんて、珍しい。
母親だけではなく、文也の方にも何らかの屈託がある。当たり前か。自分を愛さない母に、無償の愛情を向けられるほど、彼は無力な子供ではない。自立した大人だからこそ、自分の母親を批判することもできる。
五月の連休のときに実家に戻ったのも、長男としての義務感か、母親がこき使ってやろうと思って無理矢理呼びつけたかのどちらか、あるいは両方だろう。
「行かないよ」
そう言って廊下に出ると、文也はぴしゃりと襖を閉めた。
>12話
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