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<第一話④
指定されたのが夜の九時だったので、驚いた。夕食時とも言いづらい。七時から始まった飲み会が一段落して、帰るにはまだ早い。さあこれから二次会でも、という時間帯だ。
えぇ、と難色を示す私を、陽太は説得にかかった。彼がこんなにも言葉を尽くして私の首を縦に振らせようとしたことは、今までなかった。
最終的には根負けした。家まで迎えに行くと言われたけれど、自宅前に車で来られたら、恥ずかしい。
父は眉根を寄せて「誰だこの男は」と思うだろうし、母はその場では何も言わないけれど、すぐさま姉に報告して、最終的には姉から「彼氏?」と、突っ込まれるに違いない。
なので、ちょっと離れたところに止めてもらった。
そういえば元彼は、一度もこっちには来なかった。私は彼の実家に挨拶に行ったのに、「北海道は遠いし、君も俺も忙しい時期だろう? 親御さんにこちらに来てもらえないだろうか」と、渋られた。そのときは繁明のことが本当に好きだったから、両親に必死に頼み込み、私が航空券と宿泊代を負担することで顔合わせはできたが、特に父は、あまりよく思っていなかった気がする。
小雪の地元もこっちなのだけれど、あの男は彼女の実家にも同じことを言うのだろうか。結婚前に妊娠させておいて、それは不誠実な気がするけれど、正直、繁明ならやりかねない。
若い会社だから、勢いとテンションだけで営業成績をトップに伸ばせたのだ。考えナシなところがあって、割りを食うのは他の部署の人間だったりしたっけ。
ぼーっとしていたら、「どうしたの? 車酔い?」と、陽太が問いかけてきた。後部座席の私が黙ったままなのを、心配してくれている。物思いに耽っていただけ、と言えばまた余計な気遣いをされそうで、
「ううん。大丈夫。酔うような運転じゃないよ。陽太、車の運転上手いね。私もペーパードライバーを卒業しないとなあ……」
と、普段の調子で喋り始めた。ペラペラとよく回る口に、彼は安堵の表情を浮かべ、事故など起こしてなるものかと、キリリと引き締めた。
向かった先は駅前だ。有料駐車場に止めて、すたすたと歩く彼の後ろをついていく。
函館駅は、私が小学校に上がったかが上がらないかの頃に新しくなり、今の姿になった。駅は立派だし、隣接する商業施設も新しい。
しかし、昔ながらの街並みを残した商店街の方はというと、少々うら寂しい。子どもの頃からずっとだから、もう見慣れてしまっていた。この辺に棒二森屋という百貨店があった頃は、家族で頻繁に訪れていたけれど、成長するにつれて五稜郭へと遊び場を移し、このあたりに来ることもなくなっていた。新しめの店もちらほらとできてはいるみたいだが、観光客もベイエリアから元町方面へ行ってしまうか、五稜郭の史跡を見に行くかなので、あまりやって来ないのが現状だ。
「ここだよ」
陽太が案内してくれたのは、小さな店だった。黒の看板に淡い黄色で細く書かれた「月虹」の文字が、隠れ家バーらしさを強調している。
扉を開けると、レトロなベルが揺れた。「いらっしゃいませ」の大声はなく、ちらとカウンターの中のマスターが会釈をして出迎える。そういう流儀の店なのだろう。店内にはクラシック音楽が静かに流れていて、お客さんも一人客ばかりだ。カウンターに座り、ちびちびと酒を舐め、時折マスターに小声で話をして、声を低めて笑っている。
「ラッキー。テーブル空いてる」
カウンターが六席に、二人掛けのテーブルが三脚。そのうちのひとつに陽太が座ろうとして、ふと動きを止める。
「はい、どうぞ」
椅子を引いて私をエスコートする彼に、くすぐったい気持ちになった。「どうも」と礼を言い、座らせてもらう。高校時代のがさつな私だったら、「いい、いい! 椅子くらい自分で座れるって!」と、照れて大声を出し、この場の雰囲気を壊していたに違いない。伊達に都会の男と長く付き合ってきたわけじゃないのだ、とまた思い出して、ちっとも傷は癒えていないんだなあ、と、嫌になる。
カウンターから出てきたマスターは、おしぼりを手渡してくれる。
私よりも長い、肩まで伸ばした髪の毛を、前髪ごと後ろに流してひとつに結んでいる。汚らしくないように髭を整えているが、イメージは映画で見たことのある、ヒッピーだ。だらしない格好をしていたら、まさしくそのもの。
寡黙なマスターに、陽太は「車で来たから」と、カタカナ名前の何かをオーダーした。聞きなれない音を、「なんて?」と、自分に言われたわけでもないのに聞き返すのも、変な話だ。
マスターはじっとこちらを見た。注文を待っているのだと気づくのに、少し時間がかかってしまった。寡黙なのはいいけれど、これでよく客商売が成立しているなあ、と呆れる。これこそまさしく、あそこのファミレスの店長の言うところの「愛想がなくてでかい」男なのだろうけれど、店の雰囲気やお客さんの受け入れ方からして、彼の接客に文句のある人はいないのだろう。
「えっと……」
どうしよう。お酒はあまり飲まないから、よく知らないのだ。車を運転して帰らなければならない陽太だけじゃなく、自分までアルコール以外を頼んだら、店に悪いんじゃないかとも思う。
「雨宮さん、お酒あんまり得意じゃない?」
陽太が気を回して聞いてくれたので、こくりと頷く。
「ビールもあんまり得意じゃなくって」
「じゃあノンアルコールにしようか?」
できれば、と言うと陽太はマスターに目配せした。以心伝心、マスターは頷き、カウンターへと戻っていく。
数分後、運ばれてきたのは甘くておいしいカクテルだった。マンゴーの味がして、口の中が一気に華やかな南国になる。おつまみとして陽太が適当にオーダーしたチーズやナッツを食べ、それで、陽太はここで何を私に話したいのだろうと思う。
時間をつくって、とわざわざ言われたわりに、連れてこられたのは話をするのに向かない物静かなバーだ。少しの物音もを立てることも許されないような。たぶん居心地はいい、のだと思う。ただ、むず痒いというか尻の座りが悪いというか、お喋り好きな私には向かないというだけ。
空気がゆったり流れていくところも、常連客の気に入りなのだろう。大人な雰囲気の店だ。アラサーというそこそこいい年になってきたのに、こういう店が似合わない自分が、少し恥ずかしい。
彼が注文したのは、フランス原産の炭酸水だった。瓶からグラスに入れて、アーモンドを摘まむ陽太はというと、同い年なのに様になっていた。周りの迷惑にならないように、時折私に話しかけてくる。アルコールは入っていないはずなのに、なんだか頬のあたりに熱が溜まってぽーっとしていると、陽太が「雨宮さん?」と、話しかけてくる。
「眠い?」
「あ、ううん。そうじゃなくて……なんか陽太、大人になっちゃったなあ、って」
それに引き換え、私は。
我が身を振り返ると、本当に情けない。婚約破棄のショックで出戻ってきて、親のすねをかじって家事手伝いとは、まったくいいご身分だ。
ひょっとして陽太が今日ここに呼び出したのは、自分との差を知らしめるためだった? それで奮起して、仕事に取り組むようになるという作戦? それならばっちりハマっているわけだけれども……。
陽太はきょとんとした。それから柔らかく微笑むと、「俺は変わらないし、雨宮さんだって、その……」と、言いかけて口を噤んだ。マスターがお代わりについて尋ねにきたからだった。
バー「月虹」は、マスターがひとりで切り盛りする店だ。だから、閉店時間もある程度融通が利く。彼は表に最後のお客さんを見送りに行くと、戻ってきて開口一番、
「陽太。今日はどうしたんだ?」
と、低い声を轟かせた……。いや、普通に小さな声だったけれど。あまりにも無表情で低音だったものだから、地響きのように私が感じてしまっただけで、マスターは悪くない。陽太はマスターの問いかけを無視して私に向かって、
「雨宮さん。この人、俺の兄の鉄平。緊張しなくて大丈夫だから」
と、紹介をされた。身内の店だったのか。肩に入りっぱなしだった力が抜けた。そりゃ、雰囲気に飲まれることもなく、普通に過ごせるわけだ。私は慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「雨宮まひるです。えっと、陽太くんとは高校が一緒で、こちらに帰ってきてたまたま再会しまして」
眼力鋭いお兄さんの視線が痛い。弟に近づく不届きものをチェックしているかのようで、私は陽太の彼女でもなんでもないということを必死でアピールする。昔は結構、人の心の機微に敏く気にしいだったはずの陽太は、兄には鈍感力を発揮するのか、私の心境など知らないままにマスターを自分の隣に椅子を持ってきて座らせた。
「雨宮さん、間借りって知ってる?」
これまた、唐突な問いである。大学時代はいろいろな飲食店でバイト経験を積んできた身だ。実際に間借りしている側で働いたことはないが、貸す側の店でバイトをしたことはある。夜しかオープンしない店、平日のみ、または休日のみしか開けない店を遊ばせておくのはもったいないと、別の人に貸し出すのである。
借りる側は初期費用が抑えられて、いずれ自分自身の店を出店するための貯金ができるし、貸す側は家賃収入が入ってくる。Win-Winとはまさしくこのこと。
「実は兄貴、この店を貸す相手を探していてね。俺のところに相談に来ていたんだ」
先月までは、チーズケーキカフェが入っていたらしい。だが、度重なる契約不履行に限界が来て、マスターが打ち切った。経営不振でもあったそうだ。まあ確かに、美味しいチーズケーキなら駅の売店でスナッフルスのチーズオムレットを買っちゃえば事足りるから、流行らないだろう。マーケティング不足、というやつだ。
「諸事情でつまみも乾き物しか出せなくて味気ないし、バーの売り上げも減っているところに、昼の賃料も消えたわけだから、大変なんだよね」
「おい。こっちの事情を他人様にそうやすやすと……」
お兄さんの制止に、陽太は口を尖らせた。弟として心配しての行動だというのに、弟の心兄知らず、また逆もしかり。
彼らの小声での内緒話は、向かいに座っている私には丸聞こえだ。どうやらマスター、結婚しているのだけれど、奥さんに逃げられたらしい。
だから私に店を借りてもらって飲食店をやってもらい、ついでに夜のバーの仕込みも手伝ってもらえはしないだろうか、というのが陽太の提案だった。
「軽食はずっと、あいつのを出していたから……」
夫婦ふたりで切り盛りしていたバーから、つまみや軽食の準備を担当していた奥さんが消えた。置手紙一枚も残さずに、急にいなくなった。
マスターは寡黙で無表情だけど、たぶん奥さんのことを心から愛している。彼女は裏切っているかもしれない。でも信じたい。陽太の糾弾にぽつぽつと言い返す姿からは、葛藤を感じた。
親友に裏切られ、婚約者に捨てられた私。奥さんに逃げられたマスター。似た境遇に同情して、私のわずかばかりのお金や、料理の腕が役に立つのなら、と思った。陽太の顔を立てるという意味もあった。
言いあうふたりの間に入るように、「はい! はいはいはい!」と、挙手してわざと大きな声を上げる。あまり似ていない兄弟の目がこちらに向けられる。
「わ、私やってみたいです! 昼のお店も、それからレシピがあれば、バーの食事もお役に立てると思います……!」
自分で店を出すだけの力量はないと思って、普通に就職した。けれど、もしも機会があれば飲食店の経営はやってみたかったことのひとつ。高校で調理科にいたクラスメイトの半分は、そうやっていつかは……と夢をみていた。私だって例外じゃない。料理の味や見栄えはともかく、セルフプロデュースや経営のノウハウなんかを学びかけたところで挫折したけれど、転がり込んできたチャンスだ。
私の料理で、誰かを笑顔にしたい。料理にのめり込んでいった理由が、それだから。
それに、万が一失敗したとしても、間借り店舗ならば損失も少ない。最終的には調理担当がいなくなったこのバーで雇ってもらえるかもしれない、という計算も働いた。
双方にとって悪い提案じゃない。陽太も満足そうに頷いている。
けれど、マスターの返事は「いらん」という冷たい一言だった。
>第一話⑥


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