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「いらっしゃいませー」
自動ドアが開くタイミングは、メロディが教えてくれる。それに合わせて挨拶をする。ちら、と窺って、それが同じ学校の生徒ではないことを確認した。
アルバイトは原則禁止だ。原則ということは例外もあるわけで、望美はしっかりと申請書を提出、生活指導の教師とバイト先のオーナーとの面談のうえで、正式に許可が下りている。
週に三回、放課後の三時間。将来のためにバイト代はコツコツ貯金している。
望美がアルバイトをしていることは、クラスメイトもほとんど知らない。秘密を共有するほど仲のいい友人もいない。「どこ行くの?」と聞かれたから、寮で同室の人間だけは、望美がアルバイトをしていることを知っている。
一緒に部屋を使っている菜々は、小遣いがいくらあっても足りないらしい。毎月仕送りを早くに使い切っては、金策に苦労している。
「いいなあ、あたしもバイトしたーい!」
今日の出勤前、制服から私服に着替えているときにも、ベッドに転がり、クッションを抱きつぶしながら羨まれた。
バイトはよっぽどの事情がなければ却下される。菜々の家は、特に金銭的に困っているわけでもないのだろう。すべては彼女が浪費するのが悪い。
「バイトなんてしなくてすむなら、その方がいいと思うけど」
思ったよりもぶっきらぼうで、冷たい声が出たことに、我ながらびっくりした。当然、菜々の怒りを買う。
「なんでそういう風にしか言えないの? ほんと、吉村さんって感じ悪いよね」
面と向かって「感じ悪い」と言える菜々自身も、決して性格はよくない。
そもそも、諸事情で高校一年の途中から入寮した望美に、彼女は不満たらたらだった。
せっかくひとり部屋を満喫していたのに、と膨れた菜々は普通科で、三年になってもひとり部屋になれる可能性は低かった。受験勉強に集中するという理由で、特進科の成績優秀者が優先的にひとり部屋に入居していく。
人数の関係でひとり部屋スタートだった菜々は、ことあるごとに文句を言った。
部屋が狭い。これ見よがしに勉強されると、こっちが焦る――……。
そんなことを言う同室者と、仲良くなりたいと思うだろうか。
「ありがとうございましたー」
レジ袋を渡したところで、ちょうど退勤時間だった。午後六時。寮の夕食は七時から七時半の間に食堂に行くことを推奨されている。今日は暑かったし、食事の前にお風呂に入りたいから、ダッシュだ。
ロッカールームでさっさと着替えて帰ろうとしたところで、「吉村さん」と、呼び止められた。
「オーナー」
七十を超えたくらいでは、今日日「老人」と言えない。実際、このコンビニのオーナーも、腰は曲がっていないし、声にも張りがある。白髪と顔に刻まれた皺は年相応だが、言動は若々しかった。人手が足りない時間は、率先してレジに立つ。
「これ、いつもの」
彼は、望美に紙袋を手渡した。手のひらサイズの軽い中身に、望美は愛想笑いとともに、空虚な「ありがとうございます」を返した。
そうか、今日は二十五日。給料日でもあるが、中身は金銭じゃない。そちらは銀行振り込みだ。振ると、カタコトと小さな音を立てる。
「僕は吉村さんを信用しているからね」
「はい、わかっています……」
オーナーが自腹で店から購入し、毎月二十五日に手渡してくれる「ソレ」を、望美は最近、持て余していた。
「気をしっかり持つんだよ」
彼はいい人だ。いい人すぎて、時々嫌になるくらい。
望美は口角を上げて頷く。接客中よりも、よっぽどいい笑顔をしているに違いない。
そっと鞄の中に入れて持ち帰る。
「ただいま帰りました」
ネームプレートをひっくり返し、在寮表示に変える。
マスールに「おかえりなさい」と声をかけられても、一切動じなかった。
オーナーに初めて「ソレ」をもらったときには、ばれたらどうしようと不安だったのが、嘘みたいだ。何事も慣れるものだ。
菜々は部屋にいなかった。ホッと息を吐いて、望美は机に向かって座り、一番上の引き出しを開ける。
細々した文房具が入っていると見せかけて、その奥にはタバコがしまってある。
最初に「欲しい」と言ったのは望美だ。オーナーはその理由にひどく同情し、自腹で買ってくれるようになったが、そろそろストップしなければならない。隠し場所は有限だ。
ここが学生寮でなく、望美が成人していたならば、ライターも一緒に手に入れて、紫煙をくゆらせることもできたが、そうはいかない。
授業料は特待生だからかからないが、それ以外の雑費や寮費は、祖父母に払ってもらっている身だ。喫煙騒ぎなど、起こすわけにはいかない。
――もうすぐ一年、か。
今日もらったタバコをしまう前に、じっと見つめた。
入寮して、バイトを始めて一年。それは、家族を失って一年ということでもあった。唯一、望美のことを受け入れてくれていた人。離れて暮らしていても、誰よりも家族であった人。
箱を開けて、タバコの匂いを嗅いでみる。あの人の匂いがするんじゃないか。そう思って。
けれど、火をつける前のタバコの匂いは、望美の知る匂いとは違った。彼の生活にまつわる香り――使っているシャンプーや、柔軟剤、かっこつけて使うようになったオーデコロン――と混ざらないと、あの匂いにはならないのだと知る。
いいや、そもそも匂いが記憶に残るほど、近くにいたことなんてなかったのかもしれない。
「昔の人の袖の香ぞする、か」
古文の授業で習った和歌の下の句を口にする。
香りは最後まで記憶に残るものだという。
顔も、声もいつかは消えてしまっても、香りがトリガーとなって、大切な人の記憶はよみがえってくるらしい。
けれど、このタバコの匂い単体では、望美の涙腺はまったく揺らがなかった。
嗅覚が鈍いのか敏感なのか、どちらの要因だかわからないまま、しばらく鼻をすんすんと言わせていると、
「はー、いいお湯だった! おなかすいた!」
と、菜々が大浴場から戻ってきた。
慌てて引き出しの定位置に煙草を突っ込んで、閉める。
普段はどちらかというとおとなしい所作の望美が、寮の備品を乱暴に扱ったため、菜々は目を丸くして、「え、嘘。なんか怒ってんの?」と言った。
「なんでもない」
「えぇ? 全然なんでもないって顔してないじゃん。なに、八つ当たり? バイト先でセクハラじじいにでも当たっちゃった?」
ふざけ半分の菜々の追及に、望美は「なんでもないって言ってるでしょ!」と、怒鳴ると同時に立ち上がった。
「……どこ行くの」
すっかり気を悪くした菜々は、それでも望美に声をかけてくる。
どうしてこの人は、私をかまうんだろう。
ひとり部屋を邪魔されて、望美のことが気に入らないくせに。無視をするのがお互いのためだと、わかっているはずだ。
「お風呂」
単語のみで答え、手早く支度をして部屋を出た。菜々はもう、望美に興味をなくしていて、スマホ片手にベッドに寝転んでいる。
タオルと着替えを持って大浴場に向かう途中、イズミキョウカを見つけた。彼女は寮に住んでいて、若いマスールを見たことがない寮生たちに、興味津々で日々取り囲まれている。
「どうしてマスールになろうと思ったんですかぁ?」
この一週間、毎日投げかけられる質問に、イズミキョウカは答えない。笑って、「秘密」と唇に人差し指を押し当て、ウィンクまでして見せる。
清廉潔白なイメージの修道女には似つかわしくない仕草に、生徒たちはきゃあきゃあとはしゃぐ。
間近で見るキョウカは、とても美しかった。地味な灰色の修道服よりも、思い切った露出のあるドレスを着て、夜の街で男性にエスコートされている方がふさわしい女だと思った。 もっとも札幌ならまだしも、人口減少の止まらない、いち地方都市では様にならないだろうけれど。
芸能人でいうなら、セクシーな魅力といつまでも老いない若々しさ、得体の知れないセレブっぽさが売りのタレントの、姉と言われている方に似ていると思う。
自分がキョウカのような容姿の持ち主だったのなら、もっとイージーモードで生きていけたかもしれない。
進学費用だって、大学に入ってからキャバクラとかでバイトをすれば……と考えて、性格は変えられないことに気づいた。
いや、顔かたちが違えば、性格も変わるものか?
広告で見た美容整形ビフォーアフターを脳内で並べてみるも、答えは出ない。こんなことで悩んでいる根暗は、いずれにしても無理そうだ。
この数日で、キョウカの人となりは少しずつわかってきた。
人あしらいがうまく、女子高生から見れば、格好いい憧れのお姉さんだ。男性がいない学校では、ほんのりと王子様扱いをされている。 性格も容姿も、出家などせずとも、どんな世界でも生きていけそうな、明るい人。
そう思うのは、望美だけではない。
他の寮生もまた、こんな美人がどうして男厳禁の修道女なんかに、と思っているからこそ、何度でも同じ問答が繰り返されているのだ。
揚げ油の臭いが染みついた髪の毛を洗いながら、望美はふと想像した。
誰かを亡くした悲しみで出家したのだとしたら、キョウカが他人にその理由を言いたくないのも、わかる気がする。
実際、私だって自分が家族を失った……自死遺族であることを、むやみやたらに吹聴したくないのだから。
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