<<はじめから読む!
<13話
外を歩けば熱波が襲ってくる夏だった。三つの露子が初めて経験する暑さだった。熱気によってまず、食欲がなくなる。そうすると体力も落ちる。母が倒れたのは、十日ほど前だった。
最初のうちは寝ていれば治る、と言い張って床についていた。まだ、乳母とともに横になっている母の元に行き、おしゃべりをすることだってできた。
霞の君と呼ばれていた母は美しく、けれどその通り名のとおり、儚くもあった。線が細く、色が白い。真っ直ぐな黒髪はそのまま上衣の刺繍に使いたくなるほど艶やかだった。
母は優しく、露子の手を握った。暑い空気の中、母の手だけがひんやりとしていて、露子は気持ちよくてずっと握っていたかった。乳母によって引きはがされると、ぐずって泣いた。
そして十日が経過して、母の容態は急変した。ようやく父は慌てて、祈祷のために僧侶たちを呼び出した。露子はばたばたと慌ただしい屋敷の中でこっそりと、母の枕元に黙って座っていた。
「おかあさま」
小さな声で呼ぶけれど、母は目を開けなかった。僧を出迎えるために数少ない女房たち、下男たちも皆出払っており、露子は一人で母の命の灯を見つめていた。
「おかあさま」
やはり目は開かない。しかし握ったままの手が、ぴくりと動いて返事をしてくれた。うっすらと開いた唇が、掠れた声で「露子」と娘の名を呼んだ。
「おかあさま、苦しい?」
母の唇がただ、「水」と動いたのを見て、露子は、「わかった!」と部屋を出ていく。
お水。お水を持っていかなくちゃ。厨には誰かいるかしら。ううん、いなくたって、持っていかなくちゃ。お母様がお水を欲しがっているんだもの。私が助けなくちゃ。
厨では僧を出迎えるために、どたばたと動いている下女たちの姿があった。こんなところに来てはならない、と口を酸っぱくして父には言われていたが、露子は叱られてもいい、と覚悟していた。
なんとかお椀に水を入れてもらった露子は、零さないように行きとは打って変わって、慎重に歩みを進めた。
けれど、露子が母に水を飲ませることは叶わなかった。後ろからどたばたと音を立ててやってきた集団は、小さな露子のことなど見えないかのように、蹴り飛ばした。
あ、と思ったときには露子は転び、水は零れてなくなっていた。母の眠る局の目の前まで来ていたのに。じんわりと露子の両の目からは涙がぽろりと零れ落ちたが、大きな声で喚くことはなかった。
母は具合が悪くて寝ているのだ。大声を出したら起きてしまう。そんな気遣いは無駄で、母の枕元へ侍った大勢の僧侶たちは、大声で経文を唱え始めた。
露子が立ち入ることは許されなかった。小さな子供にできることといえば、廊下の隅に座って息を殺し、部屋の中から聞こえてくる僧侶の声に耳を傾けることだけだった。
きっと母がよくなったら、この気味の悪い歌声は小さくなって、消えるに違いない。
露子の願いはむなしく、僧の経を唱える声は大きさを増すばかりだ。
空になった椀が、地面に転がっている。
>15話
コメント