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<12話
姫様、大変ですぅ! と、普段露子にとかくおしとやかにしろと言ってくる雨子が、どたばたと戻って来た。
東の対からは確かに通行らしい壮年の男の声が聞こえてきた。相も変わらず俊尚は喋らなかったようだが、その点はいつも主人にくっついている烏が応対していた様子だという。
「烏もいたの?」
大人の話し合いの中に彼がどうして加わっているのか露子にはわからない。
「でもとにかく、彼の声がしたんですよ」
「うん、わかった。で? 関白様は俊尚様に何を?」
そう、それなんですが、と雨子は興奮気味に語り始めた。
夏の流行り病は術者たちのまじないによって収束した。幸いにして今年の死者は例年よりも少なく済みそうだ、と関白はまず、陰陽頭として儀式を取り仕切った俊尚をねぎらったという。
だが本題はそれではない。
「呪詛、ですって?」
聞き返した露子に、雨子は神妙な顔をして頷いた。
帝が呪詛にかけられている。硬い声色で通行は語った。三日前から高熱にうなされている。神祇官の役人も儀式を執り行ったが、結果には結びついておらず、帝は最も信頼する兄に助けを求めている。すなわち、俊尚に。
今の帝と言えば、真面目で地味な先帝とは対照的に、華やかな話題に事欠かない。
気に入った女の身分が低ければ貴族の娘として一度家に入れて、それから宮中に出仕させ、手を出す。その割に子供の数は少ないというのは、運がいいのか悪いのか。
実際、好色な帝だからこそ、たまに変わり種が食べたくなって露子に入内の話が来たのだろう。
「ほんとに呪いだとしたら、きっと女絡みでしょうよ」
恨まれるとしたらそれしかない。大方、結婚が決まっていた娘を無理矢理自分の物にしたとか、その辺だろう。
「姫様、そんな身も蓋もない……」
「いや~、でも自業自得でしょう」
帝の命が危険に晒されていることが知られたら、次に権力を握ろうとしている輩は黙っていないだろう。
だから通行は、一人でこんなところまでやって来たのだ。帝の一大事を知る人間の数は、少なければ少ないほどいい。
露子は呪いなど、無論信じていない。どうせ不摂生が祟ったのだと思っている。だがその意見は今の世の中、少数派だ。
俊尚が行ってまじないをすれば、帝は少なくとも、不安ではなくなるだろう。そうすれば、病気も自然と治るに違いない。病は気から、だ。
弟のためにも、俊尚は絶対に帝の元へ行くのだろう。露子はそう確信していた。
しかし。
「その後あの子が答えていたんですけどね、俊尚様は、まじないを行いに帝の元へ行くつもりはないそうなんですよ」
「……なにそれ」
今度ばかりは絶句した。露子には兄弟はいないが、雨子がいる。もしも自分に、彼女を安心させる技術が備わっているのならば、絶対に力になりたいと思う。
「仲が悪いのかしら……」
確かに女好きで有名な帝と、無表情で堅物な俊尚では気が合わないのかもしれない。それに俊尚の方が第一皇子であったにも関わらず臣籍に落とされたのはなぜなのか。
露子にはわからないことが、たくさんある。もしも夫がきちんと対話をしてくれていたとしても、聞けない事情もたくさんある。
それにしても、関白が直々に頼みに来たにも関わらず断ってしまって、俊尚は怖くないのだろうか。父はいつだって、通行に対してぺこぺこしていた。野心をその胸に抱きながらも、そうしなければ貴族として生きていかない。すべての権力は関白に集中しているのだから。
露子は結局、何も知らない。夫の仕事ぶりも、周囲の人間との関係も。それは自分の身を守るためにも必要な情報だったのに、雨子が伝えてくれた以上のことを調べようとはしなかった。
「ごめんください」
二人で黙りこくっていると、俊尚の使いで烏がやってきた。いつでも俊尚と一緒にいるという噂だから、彼も忙しくしていたのだろう。烏と会うのもあの日以来だったが、なんとも都合がいい。
雨子に御簾を上げさせて、露子は烏と対面した。ややその面差しが緊張しているように見えたのは、露子の気のせいだろうか。
烏はまず、俊尚からの贈り物だと言って、籠を手渡した。
「なんか、動いてますけどこれ……」
「開けてみてください」
その反応に苦笑しながら、烏は言った。恐る恐る雨子が蓋を開けると、「にゃあん」と可愛らしい声がした。
「あら、猫?」
露子は立ち上がり、籠に近寄った。お行儀よく収まっているのは三毛の仔猫で、目は珍しい緑色だ。抱き上げても大人しい猫を、露子は一目見て気に入った。
「気に入っていただけたようですね」
「そうね。猫は好きよ」
露子は猫を連れて、元々いた場所に座り、膝の上に猫を載せた。ふわふわの毛並みを撫でていると、すっと苛立ちが引いていき、冷静に話ができるような気がした。
「自分の代わりに奥方様を守れ、と俊尚様はその猫に言い聞かせておりました。また、この猫を見て寂しさを紛らわせてほしい、と奥方様へのご伝言です」
まだまだ忙しくて。白々しくも烏は、そんなことを言う。何がまだ忙しい、だ。最も大切な職務を放棄しているくせに。
「帝の治療に行かないのに、忙しいの?」
烏は顔を上げ、なぜそれを知っているのか、という目で露子を見て、それから雨子に視線を移し、溜息をついた。
「どうして? 関白様のご命令を無視すれば、今後どうなるかわかってるでしょう? 何よりも、帝は、俊尚様の弟君ではないの」
途中で声が震えた。夏の病は露子の中では禁忌だ。触れればいまだに心が痛む。
「帝は俊尚様を頼りにされているのに」
烏は目を伏せた。出会ったばかりの頃は素直で賢い少年だと思っていたが、俊尚と結託しているところを見ると、そんな仕草のひとつひとつも、嘘くさく見えてくる。
ぴりぴりした空気を感じ取ってか、仔猫は露子の膝から飛び降りて、籠の中に入った。がたがたと暴れている音が聞こえていたが、やがて落ち着いたのか静かになった。
蝉の声しか聞こえない。露子はもう、自分からは話さない。一度口を開けば、どこまで烏のことを追い詰めるかわからなかった。
しばらくだんまりを続けていた烏だったが、しっかりと露子と視線を合わせ、口を開いた。
「……俊尚様にも、お考えというものがございますれば」
たった一言そう言って、烏は北の対から出て行った。呆然と見送る露子は「どうして」と誰に聞かせるわけでもなく、呟いた。
「私にはできなかったことが、あなたにはできるじゃない……」
あの夏も暑かった。夢の中では感じない熱気を空気から感じ取って、はっきりと思い出す。そして最後に握った手の冷たさもまた、鮮明に。
>14話
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