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<8話
眠れぬ夜を過ごして、イベント二日目を迎えた。
今日は日中は自由時間、そして夜にはメインイベントである百物語が開催される予定だ。
朝食を食べた後、参加者たちは橋本が運転する車に乗って街へと繰り出した。
旧軽井沢で洒落た店を眺めたり、カフェに入ったり。あるいはアウトレットでショッピングをするのだと、特に女性たちは気合いが入っていた。
アルバイトの勝弘と若山も、自由時間となった。若山は参加者たちと一緒に買い物へ行ったが、勝弘はそんな気分にもなれず、コテージに残っていた。
暇な時間ができたら読もうと思っていた海外の専門誌を開くが、小さなフォントの英字は、ちっとも内容が頭に入ってこない。
三十分経過しても、一パラグラフも進まないので、勝弘は溜息混じりに立ち上がり、キッチンへと引っ込んだ。
コーヒーでも飲んで一息入れれば、集中力も戻ってくるだろう。そう自分に言い聞かせた。
空っぽのポットに水を汲み、電源を入れる。湧くのを待つ間、勝弘は直樹のことを考えていた。
返事を保留にしたままの勝弘のことを、直樹は不誠実な男だと思っているに違いない。
昨夜の肝試しで話をしたそうにしていたのも、恨みつらみをぶつけたかったのだろう。一晩考えた結果、勝弘はそのように結論を出した。
だって、六年だ。中一の夏から、今の今まで。
直樹はどのくらいの間、自分の返事を待っていてくれただろうか。その時間が長ければ長いほど、勝弘への怒りは増すだろう。
勝弘には勝弘の事情があってのことだが、言い訳をするつもりはない。
きらきらした思い出に彩られるべき青春の一部を、奪ってしまったのだから。
ぼんやりと思索に耽っているうちに、とっくにポットの水は沸騰していた。長く息を吐きだして、勝弘はマグカップを取り出した。
インスタントコーヒーは、いつもよりも多めに入れた。濃く淹れたコーヒーで、頭をすっきりさせたかった。
「先生?」
「わ……っ、ッ!」
給湯ボタンを押しながら、カップの中が黒い液体で満たされていくのをぼーっと見ている最中に、背後から声をかけられた。
接近にまったく気がついていなかった。どころか、コテージに残っていることを、知らなかった。
コーヒーが零れ、手にかかる。
「勝弘先生!」
マグカップは割れなかった。直樹に引っ張られて、勝弘は流しに手を伸ばす。勢いよく流れ出した水が、火傷した手を冷やしていく。
「直樹、もう」
「駄目。ちゃんと冷やさなきゃ」
次第に、熱ではなくて冷たさでビリビリと痺れてきた。なのに、彼に掴まれた部分は熱いままだ。
それからしばらくして、勝弘の手はようやく解放された。柔らかなタオルで包まれ、丁寧に水気を拭き取られる。
「救急箱って、どこですかね」
「それなら、そこに……」
食器棚を指すと、直樹が応急処置に必要な薬をすぐに見つけて持ってくる。
「自分で塗るから」
勝弘の言い分は、無言で却下された。直樹は自分の指に薬を搾り出すと、丁寧すぎるほどの手つきで、患部に塗りたくった。
「少し赤くなってるだけだから、そんなにひどくならずに済むと思います」
言いながらも、直樹は手を離そうとしなかった。
離してほしい。そう言えば済む話なのに、勝弘は直樹の指を見つめてしまう。
六年前の夏の日と、同じ指であって、同じ指ではない。記憶にあるのは、ふくふくと子供っぽく柔らかな肌ざわり。今、目の前にあるのはかっちりとした骨格の、大人の男の手だ。
勝弘はその手を細部まで観察する。あの頃にはなかったペンだこ。それから傷跡。しっかりと血管の浮き出た甲を辿って見上げると、直樹と目が合う。
すると、ふにゃりと彼は笑った。意外な表情に、勝弘は面食らう。
「先生は……変わっちゃったのかと思ったけど、変わらない、ですね」
ようやく二人きりで話ができる、と彼は勝弘をソファまで連れていき、座らせた。コテージには逃げ場などないのに、直樹は手首を握る力を強める。
「そりゃ……お前みたいに劇的には変わらないよ。成長期はとっくに終わってるんだし」
昔は十五センチ以上の差があった身長が、今は五センチ以内に縮まっている。思ったよりも頭の高さが近くて、勝弘は驚いたのだ。
そういうことじゃなくって、と直樹は苦笑する。
「昨日、俺のことを助けてくれたでしょ」
「ああ……」
「自己紹介のときにラブドールとかなんとか言うから、すっかり変わっちゃったんだと思ったけど……先生はやっぱり、変わらず優しい人だ」
直樹の完全に大人の男のものになった声が、静かに響く。
「買いかぶりすぎだ」
ぴしゃりと冷たく言い切った勝弘に、直樹は首を横に振った。
「あなたが優しいかそうじゃないかは、俺が決めることです。先生はいつだって、俺の悩み相談に乗ってくれたりする、優しい人……だから、俺の前から黙っていなくなったのも、その優しさのせいなのかなって思った」
直樹の目が曇った。
「俺の告白、迷惑だったよね」
子供の自分を傷つけないようにするために、明確な断り文句を告げずに去ったのだと、彼はこの六年で、答えを出した。
勝弘は、違うとは言わなかった。沈黙は勝手に肯定になるのだとわかっていた。
「でも」
直樹は目に力を取り戻して、まっすぐに視線と気持ちをぶつけてきた。
本当に、あの頃と変わらない。甘酸っぱい気持ちが胸いっぱいに押し寄せてきて、反射的に勝弘は、下を向いた。
「でも俺、そんなことじゃもう、傷つかないくらい、大人になったから。ね、だから、あのときの答えをください」
NOの答えでいいから寄越せと、直樹は言うが、そんなの渡せるはずもない。
勝弘は俯いたまま、沈黙を守った。
「どうして。俺もう、十九だよ。中学生じゃない」
わかっている。
彼が六年前の勝弘と同い年の青年に成長したことも、二十五と十九ならば、犯罪にならないということも、全部全部、わかっている。
それでも何も言えないのは、勝弘の心の傷が原因だ。直樹の側に落ち度はひとつとしてない。
まともに返事をしようとしない勝弘を、直樹は根気よく待ち続けた。じりじりと時間だけが経過していく。
「ただいまー」
緊張した空気は、コテージに帰ってきたことを告げる、賑やかな話し声で、打ち砕かれる。
勝弘は慌てて立ち上がって、「おかえりなさい」と迎え入れた。
時計を確認すると、そろそろ夕食の準備をしなければならない時間であった。今夜は外で、バーベキューだ。
そして夜十時から、百物語が始まる。
直樹はいったい、誰に失恋した話をするのだろう。
>10話
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