名刺サイズのショップカードとスマホの地図を見比べる。
ここだ、と看板を見上げる海老沢の髪の毛を、生温い風が揺らした。
真鍮製のドアノブがついた扉は、レトロな重厚感が漂っていて、店に流れた月日を感じさせる。店主はまだ若く、まだ二十代だ。彼が老いて店を閉めるという伯父から、この物件を引き継いだのは二月のことだった。
『自分の店を持てるようになったので』
常連客にカードを渡した彼は、海老沢行きつけのバーの従業員だった。そこは、特にゲイバーとは打ち出していないのだが、同性愛者が多く集まる店である。店主がゲイだから、自然とそうなったのかもしれない。
優くん、という呼び名しか海老沢は知らない。ママ――と言っても、テレビドラマで見るようなタイプではない。女装もしていなければ、大げさな女言葉も使わない――がそう呼んでいたから。
彼の方は、海老沢の名前すら知らないだろう。常連だと認識はされていて、例えば彼は、海老沢が下戸なのを知っている。アルコールを勧めてくることはないし、一杯目はオーダーせずとも出てくる。
物静かだが、常連とママが盛り上がる店内でも、声はよく通った。音楽か演劇か、どちらかの経験者に違いない。やったことがないのならば、やるべきだ。口にしたことはないが、海老沢はずっとそう思っていた。
夜喫茶、「街のふくろう」。この扉の向こうに彼がいると思うと、口の中が渇く。呼吸を整えて、いざ、海老沢がドアノブを握ろうとした瞬間、中から扉が開いた。慌てて横に除ける。
「美味しかったね~」
「マスター、イケメンだったし!」
二人連れ立って出てきたのは、若い女性だった。途端に、海老沢のなけなしの勇気がしゅるしゅると萎んでいく。
店主の彼がゲイ(バイなのかもしれない! 今初めて思い当たった!)だとしても、ここはゲイオンリーの店ではない。
酒が苦手な人にも、バーの雰囲気を味わってもらいたい、という趣旨で開いた店だという。
そのコンセプトを聞いたときには、自分のための店じゃないか、と自惚れた。
よく考えてみれば、コーヒーはまだしも、紅茶、ハーブティーが好きなのは女性だ。それに、酔いつぶれる心配がない。まだ一線を越えたくない相手とのデート先としても、ふさわしいといえよう。
下戸のおじさんを喜ばせるための店ではない。洒落た外観も、女性客をターゲットにしている。
海老沢はくるりとUターンする。
今日は場所を確認できただけで、よしとしよう。また中に入る機会だってあるさ……。
そう自分に言い訳をしながら、元来た道を引き返した。
>2話
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