<1話
東京に就職してよかったことは、田舎とは違い、ゲイコミュニティへの参加が比較的容易なことだ。
いわゆる「二丁目」と言われる界隈以外にも、飲み屋街のはずれにはひとつふたつ、ゲイが多く集まる店がある。インターネットで少し調べれば、簡単にわかることだ。
会社と家の中間に位置する、この「ステラ」というバーを、海老沢はそうやって見つけた。
「お、いらっしゃい」
店主の道楽で経営している店は、カウンターが五席しかない。熱帯夜ということもあってか、海老沢以外の客はいなかった。
「久しぶり」
精悍な顔をしたマスター……ママは、にやにやと訳知り顔で言った。
マスターと呼ぶと、なぜか彼は嫌そうな顔をする。「お喋り上手はママ、寡黙なのがマスター」と謎のこだわりを理由にあげる。ゲイのための店じゃないのに、と嘆くが、「ママ」という呼称が大きく関係していると思う。
海老沢はこの店を気に入りで、毎週末のように通っていた。急に間が空くようになったのは無論、彼がいなくなってしまったから。
海老沢は気の利いた返しを思いつかずに、かすかに笑って、席に着いた。ちらりとママが新しい従業員の青年に目配せすると、慌てて氷入りのグラスと熱いおしぼりを差し出してくる。
優ならば、海老沢には氷抜きにしてくれたはず。新人に要求することではないので、ありがとう、と受け取った。すると、ママが深い溜息をつく。
「あんまり甘やかさないで」
店員は気遣い第一。それができるようになるまでは客のナンパに応えるのは禁止、というのがこの店の方針だ。働き始めて三か月くらいになるようだが、いまだにママの基準をクリアできていない。
「ウーロン茶ください。あ、氷は抜きで!」
慌てて言い添えなければ、また氷たっぷりにされてしまう。夏とはいえ、冷房の利いた店内では、常温がちょうどいい。海老沢は、やや腹が弱いのだ。
「……で? 優くんの店には行った?」
「行きましたよ」
強がって半分嘘をついたが、ママはすべてお見通しである。
「その割に、浮かない表情だけどなあ」
初めて会ったときから、彼には勝てない。ぐっと海老沢はウーロン茶を呷ったあと、渋々、「店の前まではね!」と、真実を告げた。
「やっぱりなぁ」
けらけらと笑うママを後目に、海老沢は青年に、「サングリア!」と短く注文した。
「え? 飲むの? 珍しい……ってか、初めてじゃない?」
体質的にまったく受け付けないわけではない。ただひたすらに弱いだけだ。ビール一杯で顔は赤く熱っぽくなり、前後不覚になるくらいで。
「……ぶどうジュースで割ってください」
来たばかりなのに、すぐに酔っぱらってしまうのもどうかと思い、海老沢は言い直した。ママは微笑むと、「ジュースの割合多めにしてやってくれ」と付け足す。
「ま、エビさんにしては上出来なんじゃないか? あと少しだけ勇気を出して、次は店に入れるといいね」
「うー……」
ワインとジュースの比率がおかしいサングリアだが、すでに海老沢の頭はふわふわし始めて、思考が覚束ない。こうなると、理性のストッパーはすっかり外れてしまい、本心をさらけ出してしまうのが常であった。
職場の飲み会で、上司にいくら勧められても、ノリが悪いと言われようとも、一滴もアルコールを口にしないのは、そのせいだ。うっかり自分がゲイであることを示唆する言葉を口走ったら。カミングアウトするつもりはないのだ。
目下のところ、安心して酒を飲めるのは、この店だけだ。会社から適度に距離が離れていて、駅からも少し歩く。調べれば、ごつい身体のマスターが「ママ」と呼ばれていることもわかるから、あまり普通の客は近づかない。
>3話
コメント