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<第一話⑨
第二話 夫婦の愛はトマトで確かめて
バー「月虹」を間借りしたカフェ「真昼の月」をオープンしてから、二ヶ月ほどが経過した、五月の末。
北海道は、今が一番いい季節だと思う。東京はもう、この時期には暑さが増し、梅雨の気配が忍び寄ってくる。梅雨とは無縁の(とはいっても、函館は蝦夷梅雨という梅雨っぽい雨の期間もなくはない)爽やかな気候を楽しみに、観光客はぐんぐん増えていく。
「いらっしゃいませー」
最初は知り合いばかりだったが、最近になって、ちらほらと観光客の姿も見られるようになってきた。どうやってここを知ったのかと聞けば、SNSで紹介されていたのをたまたま見たのだという。
ありがたいことに、友人・知人はもちろん、何度か通ってくれているお客さんも、写真付きでうちの店のことを呟いてくれる。各種SNSに店のアカウントを用意したけれど、休みの日やその日のメニューについて書くのでいっぱいいっぱいで、効果的な宣伝ができているとは言い難かった。
「おひとり様ですね、ありがとうございます」
サラリーマン風の男性客は、むっつりと押し黙ったまま、私が案内する前に、テーブル席を陣取ってしまった。二人掛けの席は少ないのに、ひとりで座るなんて、気遣いのできない人だなぁ、と、内心イラっとする。初見の人ではなくて、もう何度か、うちの店に通ってくれている。常連とまでは言わないが、顔見知り程度には知ったお客だ。
そろそろ「あの~、おひとり様はカウンター席に優先的に座っていただくと……」と、話しかけてみるべきタイミングだ。けれど、険しい無表情を貫く男性客に、注意を促す勇気はない。女ひとりの経営は、こういうところでちょっと不便だ。
満員になることはないからいいか、と言い聞かせた。
「コーヒー」
今日のランチはトマトのパスタだ。たっぷりとトマトを使ったソースに、本当はにんにくを入れたらもっと美味しいのだけれど、我慢。ランチカフェは、働く人の元気を養う場所として開業した。職場でにんにく臭い……なんてことになったら、悲惨だもの。
ソースに最初から入れない代わりに、フライドガーリックをお好みでトッピングしてもらうようにした。あと、サラダ。炭水化物だけじゃ、バランスが悪いから、蒸し鶏とケールを使ったものに、自家製ドレッシングをかけている。
メニューは一種類しかないので、飲み物だけ選んでもらっている。
「コーヒー、ホットですね。かしこまりました。少々お待ちください」
にこにこと笑って接客をこなすけれど、どうしても見知らぬ男の人相手だと、緊張してしまう。これがおじいちゃんまでいけば平気なんだけれど、二十代から四十代くらいの、不愛想な男性はあまり得意じゃないなあ、と思いながら、パスタをゆでるためにカウンターに戻った。
サラリーマン客にパスタを出したところで、新たな来客があった。
「いらっしゃいませ~……なんだ、茉優じゃない」
「なんだ、ってひどいなあ。せっかく来てあげてるのに」
目下、一番の常連客を敵に回してはやっていけなくなると、私は「ごめんって」と、軽く謝罪をしてカウンターに案内をした。
「私、オレンジジュースね」
「はいはい」
お喋り店主のカフェというコンセプトを返上しなければならないほど、辛気臭かった店内が、一気に賑やかになる。
森野茉優は、高校の同級生だ。陽太と違って、調理科の仲間である。とはいえ彼女は、製菓・製パンが専門だったので、私とは少々違う。
茉優の家は、森のベーカリーという昔ながらのパン屋を営んでいる。高校から仲が良く、私が上京してからも、帰省の度に遊んでいた彼女に、「カフェをやる」と話をしたら、快くパンの仕入れをさせてもらえることになった。
元町にある森のベーカリーのパンは、私も大好きだ。高校で茉優が昼に食べているのを分けてもらってから、すっかりハマってしまった。菓子パンも総菜パンも美味しいが、それはシンプルに、パンそのものが美味しいから。小麦の味がほんのりと甘く、香ばしい。彼女の店の真髄はバターロールや食パンだ。
そう伝えた私のことを、茉優は気に入ってくれた。それは私と同じことを、彼女や彼女の両親も考えていたからだった。森のベーカリーは、基本的に他の飲食店に卸すことはないのだが、「他ならぬまひるの頼みなら」と、引き受けてくれた。
パスタを茹でるのにも時間がかかる。その間、私は茉優とおしゃべりに興じる。
こうしていると、高校時代の教室に戻ったみたいだった。毎日喋って、喋って、喋っても飽き足らない頃のこと。今だって私はおしゃべりだけど、高校のときはそこまで目立っていなかった、と思う。女子高生なんて、みんなおしゃべりなんだから。クラスの男子と対立すると、怒涛の勢いで意見を戦わせようとする女子に、彼らは戦意喪失したものだった。
「繁盛してるの~?」
「いえいえ、森のベーカリーさんには負けますわよ」
そりゃそうだ、と豪快に笑う茉優は、自称・店の看板娘である。肩まで伸ばした髪をみつあみにした女学生ヘアは、彼女の童顔を強調している。「娘」というからには、永遠の十八歳でいなきゃね~、とは、二十五の誕生日を迎えたときのコメントであった。
「あ~、よかったよ。まひるとまた、こうやって話ができてさ」
「……ん」
ちょっとだけ大人しくなってしまったのは、茉優にもずいぶんと心配をかけたという自覚があったからだ。
去年の夏にこっちに戻ってきたとき、真っ先に家に来てくれたのは、茉優だった。いつもの調子で、「これ、お土産」と、朝焼いたパンを持ってきてくれた彼女に、私はまともに礼も言えなかった。
顔色も悪かったし、すっかりやつれていた。そんな私に、茉優は寄り添ってくれた。引きこもっていた私のところに遊びに来ては、何も言わずに一緒にいてくれた。やがて、パンを齧りながら、ぽつりぽつりと婚約破棄について語り始めた私の話を、黙って聞いてくれた。
あのときの病的な様子を目の当たりにしていたから、茉優は今、こうしてくだらないことでキャッキャと笑いあうことができることを、心から喜んでくれている。
「ありがとね。いろいろ」
「ん~……ふふふ。じゃあ、ランチ代おごってよ」
「それとこれとは別。うちより儲かってるんでしょ、森のベーカリーさんは」
出来上がったパスタを出すと、「いただきまーす」と、フォークに巻きつけて食べ始める。
「うーん、美味しい! 腕を上げたね!」
「そうだったらいいんだけど……あ、フライドガーリックいる? 今日休みなんだよね?」
「うん。この後、一緒に遊びに行かない? まだまだ話したいことあるしさ……新しい恋についてとか?」
「恋ぃ? まっさか!」
大きな声で笑い飛ばしたところで、次の客が来る。これまた高校時代の同級生であった。茉優とももちろん友人で、「やだ、偶然」と言いながら、彼女の隣の席に座る。
「あたし、アイスティーね」
「はいはい。パスタが茹で上がるまで、しばしお待ちください」
女が三人寄ればなんとやら、ますますカウンター席でのトークは白熱していく。
「なんの話してたの?」
「え~? まひるに新しい恋はないのかって話」
「それって、普通科の佐藤くん?」
一瞬、反応が遅れた。佐藤くん、という名前で彼のことを認識したことは、一度もなかった。佐藤? クラスにいっぱいいるよね、下の名前は? で、話をするようになったときにはすでに、「陽太」呼びであったから。再会して、大人の女が同世代の男を「陽太」呼びするのもどうかと思って「佐藤くん」って一回呼んだら、めちゃくちゃ嫌がられたし。
「え。なんで陽太の名前がここで出てくんの?」
チッチッチッ、と彼女は片目を瞑り、人差し指を振った。お芝居みたいだな、と思った。そういえばこの子、演劇部だったっけ。
「函館の街は広いようで狭いよ~。あんたたちの目撃証言はいくつも上がってきてんの! さあ、吐け! 吐くんだ! あんたらどこまでいってんの?」
下世話だなあ。都会っぽく見えて、この街はやっぱり田舎だから、そういう噂話が好きなのだ。隣近所、知り合いの動向が気になって仕方がない。特に、訳アリで地元に戻ってきた私みたいな人間は、格好の的だ。
あいにくだが、私と陽太はそんな色っぽい関係じゃない。私にはもちろん、恋をする気力はまだないし、向こうだって私なんかのことを、恋愛対象にはしていないだろう。
「陽太はいい人だけど、私は恋なんてしている余裕、今はないよ。仕事第一!」
と、いうことにしておく。
「きゃ~、かっこいい~!」
ヒュウヒュウ! という囃す声と同時に、ガタン! と、大きな音がした。
驚いて、三人同時にそちらの方を見ると、食事を終えた男性客が、乱暴に椅子から立ち上がっていたところだった。
やばい。夢中になっていたけれど、そういえばここは、私たちだけがいる場所じゃなかった。すっかり高校の教室気分になっていた。
慌ててレジの傍に向かうと、彼は来たときと同じ、むっつり顔だった。表情変化に乏しくて、どれくらい怒っているのかわかりにくい。現金をトレイに投げられた。こんな対応をされたのは初めてのことで、固まってしまう。
「よくもまあ、くだらないことをいつまでも喋っていられるものだな。あんたもいい歳なんだろう? それをまあ、いつまでも女子高生みたいに」
「……申し訳ございません」
謝ることしか思いつかず、頭を下げた。その上から、大きな溜息が浴びせられる。
「謝ってほしいわけじゃない。ただ単に、ある意味感心しただけだ」
「ちょっと!」
ふんわり森ガール的な見た目に反して、茉優は喧嘩っ早い。私が動けずにいるのを庇おうと、カウンター席から立ち上がってこちらに来ようとするのを、「茉優!」と、鋭く制した。
悪いのは、私だ。ここは自分の家じゃないし、私はお客じゃなくて、もてなす側の人間だ。線引きは必要だった。
「あの、お代は……」
お詫びの気持ちを示す方法が、食事代の免除あるいは割引くらいしか思い浮かばずに、「結構です」と言おうとした。少しでも機嫌を直して帰ってもらおうとしてのことだったが、男性客は今度こそ、目を吊り上げて激怒した。
「私が食事代をせびろうとしているクレーマーに見えるか!? 馬鹿にするな! そんな風に卑しい連中ばかり相手にしているから、この店は流行らないんだろう!」
「も、申し訳……」
ビリビリと震える空気に、私は再び深く、頭を下げた。足音も荒く、男性客は出ていく。
トレイの上の金額はぴったりで、お釣りは必要なかった。
「まひる! 大丈夫? ごめんね、私たちがうるさくしちゃったから、怒られて……」
「う、うん……大丈夫」
言いながらも、脚が震えていた。ちょっとまっすぐ立っていられなくなって、駆け寄ってくれた友人に支えられ、私は大きく深呼吸をする。
クレームに叩きのめされたわけではない。学生時代は飲食店のバイトで、もっと高圧的な客に、理不尽すぎる理由で怒鳴り散らされて、必死に耐えたこともある。あのときは先輩バイトはおろか、店長や他の社員も私を庇ってくれなかったから、その後すぐにバイトを辞めたんだった。
そのときのことを思えば、明確にこちらに非があるとわかっている状態での叱責は、悔しくて涙が出るなんてことはない。
ただ、思い出してしまったのだ。せっかく最近、忘れられそうだったのに。
茉優たち友人がいて、家族がいて。陽太と「月虹」のマスターである鉄平さんの兄弟、みんなが当たり前のように私のことを受け入れてくれるから、少しずつ傷は癒えてきたと思っていたのに、まだ深く、生々しく残り続けていることに気がついた。
『お前はおしゃべりすぎる』
繁明が、私から小雪に乗り換えたときの言い訳。私はまた、自分の口で失敗をしてしまったのだ。
押し黙っている私と、なぜか同じく黙って首を捻っている茉優を見比べて、友人は困り果てている。気落ちしている私にかける言葉が見つからない様子で、茉優に声をかけた。
「茉優、どうしたの?」
パッと顔を上げると、茉優は何やら難しい顔をして、こめかみのあたりをこね回している。悩んでいる様子で、目を閉じ、唸り声を上げる。
「さっきのオッサン、どこかで見たことがあるような気がするんだよねえ……うーん……」
「……何度か来たことのある人だから、前もこの店で会ったんじゃないかな」
私の言葉に、彼女は納得していない様子で、ずっと考え込んでいた。
>第二話②



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