五十嵐千尋は悩んでいた。己の行動すべき道がどちらなのか、わからなくなっていた。
カレンダーを睨みつけ、手元のスマートフォンで開いた通販サイトを、無駄にタップしてズームさせてみたりする。
どうしよう。どっちだ。
去年までは、こんな風に悩まなかった。
中学・高校は男子校だったし、大学は大学で、ちょうど入試日程とかぶっており、わざわざその日に呼び出すような女子の知り合いなんて、千尋には存在しなかった。
テストやレポートの〆切が一段落して、春休みは何をして過ごそうか、と考えているのが、二月十四日だったのである。
だが、初めてまともに恋人ができた今、千尋は選択を迫られている。
あげるべきなのか。もらうべきなのか。
友チョコや逆チョコがじわじわと広まっているとはいえ、バレンタインデーはそれでもやはり、女性が男性にチョコレートやプレゼントを贈る、恋人たちの日だ。
千尋が付き合っているのが、女性ならば。あるいは、千尋が女性ならば、こんな風に頭をぐちゃぐちゃと掻き回して悩むことはなかった。
問題は、千尋は男だし、相手もまた、男であるということだった。
今まで漠然と、チョコレートはもらう側だと自分のことを認識してきた千尋なので、どう動くのが正解なのか、わからない。
恋人の神崎靖男は、人見知りせず、明るい性格で友達も多い。だからきっと、今までたくさん、チョコレートをもらっただろうし、男相手でも、「ほら」とチョコを簡単に寄越してきそうな雰囲気ではある。
待っているだけでいいのか。それは甘えではないのか。本当は彼も、自分からのチョコレート、ないしプレゼントを待っているのではないか。
外に出るついでに、デパートの催事場を眺めてみたが、戦場だった。普段は購入するのに躊躇するような値段のチョコレートを、女性たちは(主に自分用で)抱えている。
そんな中に、ただでさえ長身で目立つ自分が割って入り込む勇気はなかった。
すごすごと逃げ帰り、チョコをあげるべきかどうするか悩み続けた結果、前日になってしまった。
スマートフォンで開いたサイトの、人気ランキングをぐるりと一周全部見て回って、どれが美味しいのか、彼の好みに合うのかわからなかった。
(そういえば、俺は彼のことを、何も知らない)
知ったような気になっているだけだ。
はぁ、と長い溜息をついて、ベッドの上にごろんと寝ころんだ。
好きという感情が、先走る。どう行動すれば、彼にもっと好いてもらえるのか、考える。
こんなことをしたら、嫌われるかもしれない、というのは不思議と考えなかった。友人以上の関係になるきっかけが、そもそも女装姿で自慰行為に耽っているのを見られるなんて、最低なところから始まっているわけで、嫌われるなら、その時点で徹底的に嫌われている。
千尋は枕を手繰り寄せて、ぎゅう、と抱き締めた。靖男が泊まりに来たのは一昨日のことで、枕にはほんのりと、彼の匂いが残っている気がする。
同じシャンプーを使っているが、それが彼の匂いだとわかるのは、当然のように、靖男とセックスしたからだ。
弱く暖房がかかったままの部屋で身体を繋げた。真剣な目をした靖男の首筋を落ちた汗が、枕に鼻をつけて吸い込んだときに、微かに感じられた。
(あ……)
もぞもぞと腰が動く。靖男の顔を、手つきを思い出しただけで、千尋の中の欲は刺激されて、反応してしまう。
女装しないと勃起しないという厄介な体質を抱えていた千尋だったが、靖男のおかげで、健全な男になれた。
が、こんな風に「したい」と思うと同時に、緩く兆してしまうのは、ちょっと問題かもしれない。
千尋はちらりと、枕許の目覚まし時計を見る。時刻は八時。もう、今日は靖男は来ないだろう。たぶん。
そっと股間に手を伸ばしかけたところで、チャイムが鳴って、びくりと肩を震わせる。なんというタイミングだろうか。しかし、驚いたおかげで、嫌らしい気持ちは霧散した。
「五十嵐ー。俺、俺ー」
詐欺のようなことを言うが、声は勿論、靖男のものだった。
「神崎、どうしたの?」
ドアを開けると、「う~さみいさみい」と言いながら、靖男がぎゅっと抱きついてきた。襟ぐりの開いた服を着ていたせいで、彼の額が首筋に触れて、その冷たさに千尋は驚く。
「もう。早く入って」
「お邪魔しまーす」
迎え入れると、ぶるりと震えながら、コートを脱ごうとはしない。千尋は暖房の設定温度を上げた。
「いきなりどうしたの?」
今日も泊まっていったりするのかな、と千尋はにわかにソワソワする。黙っていればクールに見られがちで、ポーカーフェイスなのだろうと思われがちだが、千尋の表情は、案外わかりやすいらしい。あくまでも、靖男談、ではあるが。
靖男は笑って、「はい」と鞄の中から小さな包みを取り出し、千尋に手渡した。
「え」
「チョコレート」
包み紙には、海外のブランド名が書いてあったが、千尋の知らないブランドだった。少なくとも、先日行ったデパートの催事場では見かけなかったし、通販サイトでも見ていない。
「なんか、チョコレートのイベント? みたいなとこに無理矢理母さんと妹に連れてかれてさ。ついでだから、俺もお前に、買おうと思って。チョコの味とかわかんねぇけど、妹がオススメって言ってたから、たぶん美味いと思う」
頬を掻きながら、靖男は言った。照れ隠しだということは、すぐにわかった。
背が低く、やんちゃで可愛い少年の色を濃く残した靖男は、その顔立ちのイメージに反し、男らしく生きてきたので、女性だらけのイベント会場に行くのは千尋以上に勇気のいることだっただろう。
「ありがとう」
でも、千尋は何も用意していない。やっぱり、なんでもいいから買っておくべきだった。
「あっ、ちょっと待ってて」
チョコの箱をテーブルに置いて、千尋はキッチンへとパタパタ足音を立てて向かった。
数分の時間を置いて、千尋は靖男の元に戻った。
トレイに載せていたマグカップを、彼の前に置く。
「ココアか。なんか、懐かしい感じ」
甘い湯気に鼻をひくひくとさせた靖男は、ココアに口をつけた。
「ごめんね。チョコとか何にも用意してなくて、俺が今できるのは、このくらいで」
「いいんだよ。俺が、母さんたちのついでに買ってきただけだし」
市販の粉末ココアだが、千尋は丁寧に淹れた。ポットの湯で先にココアを練り上げ、それからホットミルクを注ぎ、ダマにならないように気をつけた。
千尋も靖男に倣い、自分もマグカップのココアを一口飲む。甘くてほっとする。コーヒーや紅茶にはない、胸の奥がきゅう、とときめくような甘さだと思った。
「……なんかさ」
黙ってココアを飲んでいた靖男が、静かに言った。
「ココアって、お前と一緒にいるときみたいだなって、なんだか、そう思うわ」
店で飲むホットチョコレートとは違って、と靖男は言い、それから「何言ってんだろな、俺」と笑ってごまかした。
千尋は首を横に振る。
「ううん……俺も、そう思うよ」
この多幸感は、靖男と同じ空間で、ただ一緒にいるリラックスしたときと等しいと思う。
「チョコレート、一緒に食べようか」
箱の中には、四つの色違いのトリュフチョコレート。そのうちのひとつを「はい」と摘んで、靖男の口に持って行くと、「俺のプレゼントなんだけどな」と言いながらも、彼は素直に「あーん」と口を開けた。
「美味しい?」
尋ねつつ、千尋も白いトリュフを口に入れた。見た目に反して、中からとろりと溶けだしてきたのは、ラズベリーの酸味だった。
「……高い味がするっていうことは、わかる」
靖男の何とも言えない表現に、千尋は声を上げて笑った。
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