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<8話
講義は始まりから、いきなり頓挫した。
シルヴェステルとも懇意にしている国史編纂所の所長が、歴史や政治経済についての講義を買って出てくれたのはいい。黒板の前に立った初老の男性は、柔らかな微笑を浮かべて、「初歩の初歩からいきましょうかね」と、絵本を差し出した。
子供向けとはいっても、そこは人間族よりも教育を受けた竜人族の貴族の子女向けの本である。親しみやすい絵が大きく描かれているが、文字でびっしりと埋まっている。
「それでは早速……」
「先生」
ベリルは手を挙げて、発言の許可を求めた。教材を渡される前に、「この部屋では先生と生徒の関係です」と言われ、指示されていたとおりの行動である。一対一の講義で、意味のあることとは思えなかったが、ひとまず従った。
「どうしました?」
続くベリルの返答に、さすがの教師も笑顔を引きつらせた。
ベリルには、絵本に書かれた文字が一切読めなかったのである。記憶喪失によるものなのか、それとも事故以前からなのかはわからないが、とにかく不可思議な図形の羅列にしか見えない。
部屋の後ろで見守っていたカミーユも、ベリルが文盲だとは思ってもいなかったのだろう。覗き込み、ひとつずつ指し示して「これは?」と、確認されたが、ベリルはどれも首を横に振った。
歴史の講義どころの騒ぎではなくなってしまった。せっかく来てくれた先生を困らせていることを、ベリルは謝罪して、今日は文字を読めるようになりたいと口を開きかけた。
「まったく……人間はこれだから」
これ見よがしに大きくついた溜息に、カチンときた。
感じよく見えたこの男もまた、竜人貴族らしい価値観の持ち主だった。
すなわち、人間族は劣等種族で、同じ国を構成する民だと思っていない。笑顔を向けてきたのは、背後にいるシルヴェステルを意識してのことだ。ベリルが傷つこうとも、まるで意に介さない。
「ガレウス殿」
さすがに注意しようとしたカミーユに先んじて、ベリルは再び手を挙げた。傷ついたりなんかしない。まっすぐに男の顔を見上げて、発言権を要求する。
「……どうぞ、ベリル様」
カミーユが心配そうな目をこちらに向けたので、微笑んだ。
立派な体格の彼ら竜人族の男から見れば、自分はいかにもひ弱で、頼りなく見えるだろう。でもそれは見た目に限った話で、心はそんなに柔じゃない。
「俺が文字を読めないことと、人間族であることと、いったいどういう関係があるのですか。今の俺は、生まれたての赤ん坊みたいなものです。この国のことを、何も知りませんので」
竜人族だって、生まれたばかりでいきなり難しい書物をスラスラと読むなんてこと、ありえないでしょう。
証拠として、教材の絵本をトントンと示したベリルに、所長は何も言わなかった。まさか人間が、口答えをしてくるとは思ってもみなかったのだろう。
「あなたたちは俺たち人間を、愚かだと思っているようですが、それは違う。ただ、学ぶ機会を、戦う機会を与えられていないだけだ。俺は、拾ってくれた竜王陛下のためにも、しっかりとこの国について学びたい。だから、馬鹿にせずにまずは文字から教えてほしいんです」
つらつらと長尺で述べて、最後にもうひとつ、言いたいことがあったと付け足した。
「それから、敬う気持ちがひとつもないのに『様』なんて使わなくて構いませんよ。ガレウス先生?」
これが最後の一撃となり、ガレウス師は無言で部屋を退出してしまった。弁解のひとつもなかったので、ベリルの言葉が図星だったのだろう。
竜王の命令でなければ、誰が人間族などに学問を授けるか。学びは特権だ。貴族や金持ちにしか、許されない。そういうプライドが、透けて見えた。
やり込めてすかっとした気分と同時に、さてこれからどうしたものかと思案した。シルヴェステルのために学びたいという気持ちは本心だが、その彼と親しいガレウスと仲違いしてしまった。
シルヴェステルの評価に傷をつけたかもしれないのも怖いし、何よりも他に師になってくれる人はいるだろうか。
急に不安になって、ベリルはカミーユを見上げた。彼は失礼なことに、もう堪えられないとばかりに噴き出した。
「論客として馴らしたガレウス殿の言葉を奪うなんて、なかなかやりますね」
深緑色の目が、急に優しく丸くなった。険しい目つきをしたカミーユが恐ろしかったベリルだが、一気に肩の力を抜いた。
敬愛する主人に、どうしても大貴族の娘をあてがおうとしていたカミーユではあるが、人間族だからといって、ベリルを貶めたことは旅の途中も一度もなかったのだと、いまさら気がついた。がレウスとは違う。人間の世話係に嫌々狩りだされたわけではないと、ホッとする。
自分に対して当たりがきつかったのは、単純に竜王にふさわしい人間であってほしいという気持ちが強すぎただけ。
「ありがとうございます」
褒め言葉と受け取って、ベリルもにやりと笑った。ますますカミーユは笑みを深める。彼は実は、結構な笑い上戸のようだ。
「あなたが敬意を払うべき相手は、国内では陛下だけです。私のことはどうか、カミーユと」
それまで敬語を使い、カミーユ様と呼んでいたベリルだったが、シルヴェステルとの関係が公になれば、自分は彼の上に立つ者となるのだと、彼の言葉で思い知らされた。
「わかった。カミーユ。これからもよろしく頼む」
「御意に」
仕草と体格は立派な騎士の振る舞いそのもので、ベリルはカミーユのことを頼もしく思った。
その後、カミーユの筋肉は見せかけだということをシルヴェステルに耳打ちされてからは、彼を見る目が生暖かいものになってしまった。
>10話
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