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<5話
夕食の準備ができたところで、勝弘は男性側の各部屋を回り、参加者を呼び出した。
直樹の部屋をノックするときだけ、早口に「食事ができました」と言い、その場をすぐに立ち去った。
隣のコテージの女性たちも続々と集まってきた。
ディナーの間、勝弘たちスタッフはドリンクを運んだり、孤立している参加者を会話に誘導したりと働く。
テーブルに大皿を運びながら、勝弘は先ほど廊下で見た光景を思い返していた。
直樹は昔から、色恋沙汰に興味がなかった。嫌悪していたといってもいい。
家庭教師を次々にクビにしていたのも、単なる彼のわがままではなく、性的な関係を迫られたからであった。
『友達に相談しても、うらやましいって言われるばっかりで』
苦々しく話す直樹に、勝弘は「あー」と唸り声をあげた。
確かに、多感な中学生。家庭教師のきれいなお姉さんと……というのは憧れるかもしれない。
だが、フィクションの世界だからいいのであって、リアルで遭遇すれば、嬉しいよりも先に、まずはぎょっとするに違いない。
『AVの見すぎだろ、それ』
勝弘の言葉に、彼はぱっと明るい表情になった。
そんな少年時代を知っているからこそ、先ほど言い寄ってきた女性を袖にしたのを見たときには、あまりにも彼らしくて笑ってしまった。
しかし、今になって思えば、上に報告すべきトラブルであった。
今からでも遅くはない。橋本さん、と名を呼んだ矢先、「ちょっと、大丈夫!」と、女性の声が聞こえた。
(一歩遅かった)
乱暴に開いたドアから入ってきた女性が二人。一人は、直樹を口説いていた子だったので、勝弘は頭を抱えた。
彼女はしくしくと泣いて、顔を覆っていた。隣の女性がイライラとリビングを見渡しているので、緊張が走る。
その後ろから、何も知らない直樹が入ってきた。異様な雰囲気に気がついてか、きょとんとした表情を浮かべる。
わっと泣き声が大きくなった。
「ちょっと、あなた! 里穂に無理矢理キスしたんだって? この痴漢野郎!」
「はぁ?」
直樹は心底意味がわからないという顔で、突っかかってきた女性を睨んだ。隣にいるのが、自分が振った女性だということは、覚えていないらしい。
「とぼけないで! 里穂、廊下で泣いてたんだから!」
「そんなこと言われても、俺は知らない」
冷静に直樹は反論するが、感情的になっている女性たちは聞き入れない。こういうときは、喚き散らしている方が、周囲の注目を引き、共感を得られる場合が多い。
女は同情して、同性の味方をするし、男は女の涙に弱い。それに、一人でもライバルが少ない方がいいという打算もある。直樹の味方は一人もいない。
「どうして俺が、キスなんてするんですか」
「そんなの、里穂のことが気に入ったからでしょ?」
「だから、違いますって」
ヒステリックにすべて否定するので、水掛け論にしかならない。周囲は二人のやり取りを、傍観するしかなかった。準備した料理が冷めていく。
仲裁に入ろうとした橋本を制止して、勝弘はそっとリビングを抜け出し、自室からタオルを持ってきた。それを彼女に手渡す。
「涙を拭いてください。ね?」
化粧でドロドロになっていると思われた彼女の顔は、比較的きれいだった。
最初から薄化粧をして、まるで涙を流すことが決まっていたかのように。
そして、唇だけが艶やかなピンク色に彩られ、グロスでキラキラしているのが、顔面で浮いている。
「彼にキスをされたのは、いつですか?」
「ついさっきよ、さっき!」
連れの女性の方が強い口調で答え、タオルで目元を拭っている本人も頷いた。
「そうなんですか。その割には、口紅やグロスはきれいなままなんですね。塗り直す余裕はあったんですねえ」
勝弘は、刑事ドラマの主人公を真似して、穏やかながら少し毒を含んだ口調で指摘した。
すると、タオルを持ったまま、彼女は肩を大きく揺らした。慰めていた友人は、「里穂?」と慌て出す。
目元を控えめにする分、他の部分に色味を差すことがメイクの鉄則だ。大学に入学して、化粧を覚えたての妹が、教えてくれた。
異性の目を気にしているイベント参加者が、目元も唇も適当な状態で、男の前に現れるはずがない。
悪意のない笑顔を浮かべて、「ピンクのグロス、きらきらしてきれいですね。あ、キスされたんだったら、白坂さんの唇にも、ラメが移ってたりするんじゃ?」と、勝弘が詰めると、女性は何も言わずに、踵を返した。
「ちょ、ちょっと里穂」
狂言かもしれないことにようやく思い当たった友人も、後を追いかけていく。
妙な空気になってしまったリビングで、若山が手を叩き、皆の注目を集めた。
「私が様子を見に行ってきますから、皆さんはごゆっくりお召し上がりくださいね」
言って、彼女は勝弘に目配せし、消えた彼女たちを追いかけた。黙って勝弘は頭を下げ、に送る。
女子コテージに勝弘は入れないし、入れたとしても、自分では彼女を刺激するだけだ。
参加者たちは、誰が最初に動くか顔を見合わせていたが、やがて好きな料理をめいめいに取り分け始め、十数分も経つ頃には、騒動などなかったかのように、交流が始まった。
彼らの間を勝弘は、ドリンクをサーブして回る。視界の隅には常に、ぽつんと一人、壁の花と化している青年。
説得を試みるも、諦めて戻ってきた若山が、勝弘の肩を叩いた。
「男子のことは、井岡さんにお任せします」
あれ、と彼女が指すのは当然、グラスを片手に壁に寄りかかる直樹の姿だ。
「そんな」
「しょうがないじゃないですか。私、あの二人のところに食事を運ばなきゃならないんですから!」
そう言われてしまえば、トラブルの一端を担う形になってしまった勝弘には、ぐうの音も出ない。
適量を盛った皿を盆に載せ、コテージを出ていく若山を見送って、勝弘は直樹に声をかける。
「白坂さん。ご飯、食べてますか?」
顔を上げた直樹の目は、やや熱っぽかった。
未成年である彼には、ソフトドリンクしか渡していないはずだが、間違って酒を飲んだのだろうか。
お水持ってきましょうか、とキッチンに引っ込もうとした勝弘を、直樹は引き留めた。
「どうして」
切羽詰まった声だった。彼の目に溜まっていたのは涙ではなくて、感情だった。
素直じゃない子供だったが、彼の大きな目はいつだって、思いを発露させていた。
嘘をつこうとしても、隠そうとしても、勝弘は家庭教師時代、直樹の目を見てすべてを判断していた。
「俺のこと、覚えてないの?」
忘れられるはずなんてない。でも、今この場で昔話をするつもりもなかった。
勝弘は直樹の手を拒絶して、「仕事中ですから」とだけ言った。
>7話
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