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<6話
「蓬田先生、お時間いいですか?」
丁寧な口調は声音も朗らかで、司は一瞬、呆けてしまう。「お前誰だ?」が顔に出ていたようで、花房は途端に、うろんな顔つきになる。慌てて取り繕って、「大丈夫」と笑うと、彼は気にした様子もなく、メモを片手に質問をぶつけてくる。
いや、本当にお前、誰?
初対面の時点で、ストリートミュージシャンをしていたときとのあまりの違いに驚いたものだが、ここ最近の変化も凄まじくて、若干引く。
「授業のときに、生徒に当てるじゃないですか。わかりませんが続くと、いつも同じ生徒を指名してしまうんですけど、どうしたらいいですか?」
これまでは、ただ淡々と自分勝手に授業を進めていく花房に対する生徒たちからの愚痴を聞いて、フォローに走るのも司の仕事の一部になっていた。
それが、急に髪を切ってきたと思えば真剣に授業に取り組むようになっていた。最初に順応したのは、やはりというか、女子生徒たちだった。
『もっと年いってんのかと思ってたけど、まだ若いじゃん』
『えー、けっこうイケメン~』
これで講師としての力量が足りずに威厳を見せられなければ、再び評価は地に落ちたかもしれない。しかし、花房という男は生来、先生という職に向いていたのかもしれない。あっという間にこれまでの低評価を覆すわかりやすさで、男子生徒にまでも支持を拡大した。
教材を片手に相談をする花房を、椅子に座ったままの状態で見上げる。そもそも身長差があるので、上向く角度はいつも通りだったが、向こうもテキストを覗き込んでいるために、距離が近かった。
ふわりと香るのは、香水だった。自分はつけない派だが、彼から漂ってくるものは好感度が高く、清潔感のある香りだ。
どこのブランドだろう。
「あの、蓬田先生?」
つい、スースーと香気を思い切り吸い込んでしまい、不審な目を向けられる。さっと身を引いた司は、真面目な顔を取り繕い、「そういうときってだいたい、いきなり最終的な答えを聞いてないか?」と、回答した。
パチパチと至近距離で瞬きされる目。その後すぐ、諦めたように司の答えを聞き、メモを取り始める。
「俺がよくやるのは、こんな感じかな」
「なるほど。参考にして授業計画練ってみます。ありがとうございました」
礼儀正しく一礼して、自分のデスクに戻ろうとした花房を、司は止めた。
「何かやることありますか?」
仕事を振られるのを待つその様は、主人の指示を待つ忠犬にも見えてくる。
司は小さく溜息をついて、「無理、してないか?」と尋ねた。花房は心配をよそに、首を傾げている。
「いえ、全然、大丈夫ですけど。それに、これまでの遅れを取り戻したいので、多少の無理は覚悟の上です」
しかし、そう言う花房の目の下には、距離が離れても明らかにわかる、濃い色をした隈が落ちている。一目瞭然、寝不足と疲労の兆候が出ているのだが、本人に自覚はない。
「この間の公休日も出勤してたろ。代休はちゃんと取れ。丸一日はさすがに無理だから、半日ずつな」
「はい」
返事は素直だが、唇はひん曲がって不服そうだ。
あ、これ言うこと聞く気ないな。
司は目に力を入れて、花房を睨みつけた。自分では、生徒をガチで説教するときと同じ顔を作っているつもりなのだが、肝心の彼の反応といえば、クスリと微笑みを浮かべて、肩を竦めるだけのものだった。イケメンにしか許されない。
仕事への情熱を抱いてくれたのは、いいことだ。ただし、それで自分の生活が疎かになるのはいただけない。
彼の態度が変わったのは、湧田に連れていかれたカラオケの後からだった。時期は明確だったが、きっかけがまるで見当がつかず、少し不気味だが、気にしないようにしている。
明るく生徒にも接してくれるし、デスクワークも率先して引き受けてくれる。営業電話は少し苦手なようだが、何度もロールプレイを繰り返しているから、次は任せてみようか。
仕事は順調そのものだが、パソコンとにらめっこしている花房の充血した目を見ていると、なんとはなしに不安が胸の内に広がっていく。
>8話
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