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<7-2話
「ちーちゃん、お茶」
千紗は弟に対してそう命じた。千尋は立場の弱い弟らしくしずしずと彼女の命に従って、冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出した。
千紗は暑い暑いと言いながら、運ばれた麦茶を一気に飲み干した。差し出されたグラスに千尋はこれまた黙って麦茶を注ぐ。
「で、そこの少年よ」
この人はいったい俺のことをいくつだと思っているんだろう、と考えつつ「神崎靖男。二十一歳、大学三年」と短く名乗った。
「大学、三年?」
やはり驚かれてしまったようだ。そうだ、今日の高校生はもっとでかいのだ。この間万引きでしょっ引かれた中学生は熊みたいな身体を小さくして泣いていたっけ。
「あ、千紗ちゃん。神崎は俺の大学の同級生で、同じサークルなんだよ」
こっそりと千尋が「千紗ちゃん、年下の可愛い男の子が好きなんだ……」と耳打ちしてきた。千尋の姉とあって千紗もそこそこ背が高い。普段なら自分からアプローチするのだが、さすがに友人の姉に対してそれをやる気にもなれずに、靖男はなるほど、とだけ頷いておいた。
「で、あの服の山はなんだったのかしら?」
うっ、と千尋が黙ってしまった。
「しかもそれ着てオナニーだとか、お前とセックスしたとか、なんかそんな言葉が聞こえてきたんだけれど」
千紗ちゃんどこから聞いてたの! と千尋が悲鳴を上げるが、千紗お姉さまは涼しい顔をして笑っていた。
「ちゃんと最初から話しなさい」
そのとき靖男と千尋は同時に悟っていた。やっぱり勝てない、と。
千尋は洗いざらい話した。とはいえ、女装オナニーの直接のきっかけになった、長姉の友人とのいきすぎたスキンシップに関しては黙っていた。女装させられていたのが今でも癖になっているんだ、と言うと千紗は納得してくれた。
「外では着てないんでしょ?」
「着てないよ! 着れるはずない!」
こんなでかい男が女装コスプレして歩いていたら不気味だろう、と千尋は言うけれど、靖男は気持ち悪い、と思ったことはなかった。
「それなら別に、家で何をしていようが構わんわ。みっともない格好だけはやめときなさいな」
美容師という職業柄もあるのかもしれないが、千尋の女装趣味を知っても千紗はそれほど動揺しなかった。はい、と頷く千尋は拍子抜けした表情で座っていた。
やれやれこれで一段落……するはずもなく。
「で、次。セックスしたってどういうこと? 千尋、あんたゲイだったの?」
眼光鋭く、お姉さまは靖男を睨みつけた。
普通体格差でいったら千尋が靖男を抱いたと思うだろう。けれど千紗は一発で、靖男が千尋に突っ込んだことを見抜いて、射殺すような視線を向けている。
確かにレイプしました。無理矢理でした。ごめんなさい。即座に土下座で謝罪を決めようとした靖男を庇った影がある。千尋だ。
「千紗ちゃん、違う! その、俺が!」
「あんたそんなでっかい図体してるわりに度胸ないんだから、男をレイプするなんて無理に決まってるでしょ!」
身内もやはり大きくて無害な草食動物だと思っていたらしい。キリンに似てますよね五十嵐、と尋ねてみたい気もしたが、靖男はひたすら黙っていた。
「だから違うんだって! 俺が神崎のこと好きで、だ、抱いてほしいって言ったの!」
最後の方は声が小さくて、聞き取れなかった。耳まで赤くした千尋がいた。千紗は目を丸くして、「あんた、でも高校のときとか彼女いたじゃない……」と呆然とした様子である。
「あのときはちゃんと、彼女のことが好きだった! でも」
女装したままじゃ、女の子とは触れ合えないでしょう?
悲しそうに千尋は言った。千紗ははっとして、「千尋……」と弟の名前を呼んだ。
「みんな、俺が何もしてこないから嫌になっちゃったみたい。一回試そうとしたけど、やっぱり女装してないと役に立たなくて……」
「もういい! お姉ちゃんが悪かった!」
千紗はうなだれる千尋の頭を抱き締めた。麗しい姉弟愛を目の前で見せつけられながらも、靖男の頭には二つのことが去来する。
一つは、こんな千尋にも過去には彼女がいたのだということ。しかもベッドを共にしようという意志はあったということがショックだった。
けれど相手が女ということもあって、諦めがつくのも一瞬だった。ゲイじゃない。その言葉通りに彼女がいたというだけで、現状恋人はいないのだからマシだ。
もう一つの方が、靖男にとっては重要事項だった。
千尋は「神崎のことが好きだ」と、そうはっきり言った。本当なのか、と問いただしたいところだが、きれいに話をまとめようとした方便がばれたら、靖男はおそらくこの五十嵐家の姉に八つ裂きにされかねない。先ほどの目は、確実に殺す気の目だった。
「てことは、君はうちの弟の彼氏ってこと?」
「違うよ、千紗ちゃん。神崎は優しいから、一回だけって約束でしてくれただけ。俺の片思い」
ぎょっとしたのは千紗だけじゃなくて、靖男もだった。確かに千尋の彼氏になった覚えはないが、姉をごまかすために嘘をつくことくらい、造作もないことだったのだが。
「じゃあなに、この男はやっぱりちーちゃんのことを弄んだってことに」
「ならないよ。むしろ俺の方が逆レイプしたって訴えられてもおかしくないわけ」
わかる? と千尋は塾の先生らしく、学習能力のない子供に言い聞かせるように首を傾げながら言った。千紗は納得できないよ、という顔をする。
「でも、そんな片思いの状態じゃ、千尋が辛いじゃないの」
「いいの。俺がこれからも友達でいさせてってお願いしたんだから」
ね、神崎?
そう振られて、靖男は頷くしかなかった。
>7-4話
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