「面を上げよ」
想像していたのとは異なる声に、レイナールは一瞬、反応が遅れた。
母国で見た、ボルカノ国王の肖像画を思い出す。すらりとした威厳のある男だった。もっと若い頃は美形であったのだろうと推測できる。
彼の口から、怪鳥の鳴き声のような声が飛び出すとは思えず、恐る恐る顔を上げ、唖然とする。ぽかんと開いた口はしかし、ヴェールによって遮られ、国王本人には気づかれない。
不浄なる捕虜の身であることを感謝した。光り輝く烈火の国の王に、直接顔を見せるのは無礼だと、向こうが勝手に用意したものだった。レイナールの長く伸ばした白金の髪は毛先だけが見えている状態で、銀星と謳われる瞳は、何色か判別できない状態であろう。
金の玉座はふたつ並んでいるが、使われているのはひとつだけ。王妃のための席は、空いたままだ。
確か、ボルカノの王妃は半年前に、無理矢理離縁されたのだったか。聡明な妃だったと聞く。
ボルカノが母国・ヴァイスブルムに宣戦布告してきたのと同じ時期だったため、記憶によく残っていた。
向こうから見えないのをいいことに、レイナールは玉座の主を凝視した。王のすぐ横で、何やら耳打ちをしているのが、宰相だろう。むしろ、彼の方が王の肖像画の雰囲気を宿している。
もしやあれは、似姿ではなく、風刺画の類いだったのではないか。ボルカノ王は傀儡で、宰相こそが国の政治を担っているのだと、画家は暗に匂わせているのではないか。
レイナールはさっと視線を左右に走らせた。宰相以外にも、国を代表する大貴族たちがずらりと並んでいる。
王宮を豪華絢爛に飾るのは、絵画や彫刻などの美術品、贅を凝らした調度品だけではない。紳士たちが、色とりどり、思い思いに仕立てた衣装によって、国の権勢をうかがうことができた。
よくもまあ、母国はレイナールひとりの身で、戦争に片をつけられたものである。海に寄って大陸から隔てられているのは、ヴァイスブルムにとって、幸運であった。国土すべてを蹂躙されていても、おかしくなかった。恐ろしくもあり得た未来に、ぞっとする。
居並ぶ貴族の中でもひときわ目立っているのは、赤い軍服を着こなした男だった。中年以上の男性ばかりの中、とびきり若い。十九の自分よりは上だが、それでもまだ、二十代であろう。腹も出ていないし、髪も薄くない。
艶のある黒髪を後ろに撫でつけ、形のよい額を出している。その下に収まる眉は凜々しく、鼻筋が通っている。
美の基準は国によって違うというが、彼は万国共通の美男子であろうと思った。
だが、レイナールの目を惹きつけるのは、彼の逞しい美貌ではなかった。
(見られている)
やや落ちくぼんだ、彫りの深い黒い瞳は、少し神経質そうだ。目を険しく細めて、レイナールを見てくる。
この場に列するには正装が必須の中、軍服を着ているということは、軍人である。敵国人に向ける目が厳しくなるのも、自然なことだ。
だが、どうも敵視されているのとは、違う気がする。視線は突き刺さるものの、嫌な感じはしない。じろじろと観察されている、小動物になった気分だった。
すっかり意識の外に追いやられた王の癇癪に、レイナールは目を彼へと戻した。
「お、男ではないか!」
素っ頓狂な叫び声に、周囲から失笑が漏れる。
ああ、やはり王はお飾りなのだ。おだてられ、木に登る豚。宰相を始め、大臣たちの手のひらの上で踊らされ、見下され、利用されている。
それでも哀れと思えないのは、ひとえに彼の人徳のなさゆえにだった。ここで初めて会ったばかりのレイナールにすら、わかる。醜悪で愚かで、なのにずるいことばかり考えつく、そういう男だ。
「男などいらん!」
英雄は色を好むが、好色な者が英雄とは限らない。鼻息荒く、レイナールの存在を否定し、女を寄越せと声高に叫ぶ。宰相が宥めるも、まったく効果がない。血管が切れそうなほど怒りを露わにする様に、レイナールは危機感を覚えた。
人質を殺してしまっては、意味がない。いくら中途半端でみそっかすの王子とはいえ、レイナールはヴァイスブルムの王族である、シュニー家に名を連ねている。神殿暮らしで、宗教行事のときは、先頭に立って儀礼を執り行ってきた分、国民からの人気は高いと自負している。レイナールの死は、暴動を引き起こすに違いない。
青い顔をした宰相は、おそらくそこまで見越している。ヴァイスブルムだけの話で終わればいいが、レイナールを慕う人々は、ボルカノにも不幸をもたらすと予測している。
「陛下、落ち着いてください」
「ならん! 男を寄越すなど、ヴァイスブルムはまだまだ痛めつけられ足りんと見た!」
人質として、レイナールは母国の命運を背負っている。そして役目以上に、誰だって命は惜しいものだ。
唇を湿らせ、レイナールは声を上げた。
「恐れながら陛下。発言をお許しくださいませ」
儚げな美貌と捉えられがちな見た目に似合わず、声を張るのは、得意だった。決して怒鳴っているわけではないが、どうしてか、周囲の空気は静まりかえり、冴え渡るのである。
それは、敵であるボルカノの王宮でも同様であった。レイナールが口を開いた瞬間、王の喚き声も、宰相のぼそぼそという声も、かき消えた。毒気を抜かれたような顔で、王は「……申せ」と、発言を許可した。
レイナールは立ち上がって一礼してから、懐に手をやり、書状を取り出した。
一度封を開けたそれは、ボルカノからの講和条件が書かれたものだった。本来ならば、レイナールを送り届ける役割の使者が持参するものだったが、彼は長い船旅の間に、病気にかかってしまい、港町の療養所に入院している。
忠義者の男は、無理にでも着いてこようとしたが、レイナールは「伝染する病気だったら、どうするんだ。道中に病をまき散らす気か?」と、脅しつけて、同行を諦めさせた。
ともに旅をしてきたヴァン・ゴルムは、外務大臣であるアーノン公爵の部下で、特別によくしてくれる相手だった。治癒したら国に帰るように説得したが、彼はそこまで言うことを聞いてくれるだろうか。ヴァンの忠誠はレイナールではなく、アーノン公に捧げられている。「彼の国でレイナール殿下に尽くせ」という命令が優先するだろう。
ひとりになったレイナールは、ボルカノ軍に護衛(もとい、監視)されつつ、王宮にたどり着いたのだった。
「こちらに書かれております人質の条件は、『王家に連なる者』でございます。女とは一言もございません」
ハッとした宰相は、レイナールの手から書状を奪うようにして取り、震える手で読み始めた。いくら凝視しようとも、文字が変化することはない。
もっとも、性別の制約があったとしても、ヴァイスブルム王は姫ではなく、涼しい顔でレイナールを派遣しただろう。
唯一の姫、末のリザベラは、まだ十二歳。王も王太子も、心から彼女を可愛がっている。いずれ政略結婚の駒となることは間違いないが、相手が卑しいボルカノ王でないことだけは、確かだった。
レイナールも、唯一家族として自分を受け入れ、愛してくれるリザベラを、こんな男のもとに送るなど、考えただけで吐き気がする。
「それでも女……つまり、私の妹姫をお望みであれば、数ヶ月先になりましょう。女の旅支度は、男の私よりも大変です。しかも、彼女は身体が弱い。ボルカノまでの船旅は、男の私や供を務めた従者ですら、長く辛いものでした。血統の女性は他家にもおりますが、その中からボルカノ王のもとに侍るにふさわしい身持ちの女となりますと……いずれにせよ、一度シュニー家と養子縁組をしなければなりませんし」
立て板に水、台本を読むようにすらすらと詭弁を弄する姿は、冷静沈着で賢しらに見えているに違いない。実父譲りの口達者なレイナールであっても、このはったりがどこまで通用するのかはわからず、内心は不安だった。
言葉を変え、同じことをずっと言っているのだが、王は気づいていない。うんざりした顔で、「ええい、うるさい!」と、叫んだ。ぴたっとレイナールは口を噤み、跪いて頭を下げる。
賭けに勝てただろうか。いいや、勝てなければ困る。
ちらりと上目遣いで、自らの生殺与奪を握る相手を見上げた。
面倒になったボルカノ王は、女ではないレイナールのことは、本当にどうでもいいようだった。次第にこの茶番にも飽きて、宰相に丸投げするつもりだ。
レイナールの意表をついたのは、彼が呼んだのが、宰相ではなかったことだ。
醜悪な笑みを唇に浮かべた姿は、いいように弄び、壊してもいい玩具を与えられた悪童と同じだった。
「ジョシュア・グェイン将軍! ここへ」
「はっ」
短い返事とともに、軍人特有の素早い無音の動きで王の前に跪いたのは、赤い軍服であった。さきほどから気になっていた男であることは、言うまでもない。大きな背中を、レイナールは驚愕とともに見つめる。
将軍にしては、若すぎる。どれほど早くに出世をしたって、四十代にならなければ、軍の最高位に就くことはできない。ありえない年頃の将軍は、よほどの武功を立てたのか。それともレイナールと同様、彼もボルカノ王の玩具なのか。
「ヴァイスブルムとの戦争のせいで、そなたへの将軍就任の祝いが遅れたな。それに、結婚もまだだ。妻を娶らなければ、将軍とはいえ一人前の男とは言えん。この男は姫君の代わりにやってきた。つまりは女として扱われる覚悟があるのだ」
一切そんなつもりはないが、レイナールの着ているローブやヴェールが、女性性を高めてしまう。反論したくとも、許されない。今は、王と若き将軍以外に口を開くことのできる者はいない。
「なに、そのうち結婚披露の宴を王宮で開いてやろう。何せ、ヴァイスブルムからの大切な客人と、我が国が誇る最年少の将軍である。喜ばしいことだ」
にやにやと笑い始めた国王に倣い、多くの貴族が嫌らしい笑みを唇に浮かべ、こそこそと話を始める。
男嫁。グェイン家も終わったな。目立ちすぎていたからな……。
本人にも聞こえている悪口に、しかし、ジョシュアは一切反応をしなかった。国王に頭を垂れ、「はっ。謹んで、承ります」と、レイナールの下賜を受け入れた。
背中しか見えないから、彼の真意はわからない。だが、背後から見ていても、ジョシュアの言葉に嘘はない気がした。本当に、王から直々にレイナールを与えられたことを、誇りに思っているようだ。
レイナールの処遇が決まったところで、王は「飽きた」と言い捨て、裏へと帰っていく。おそらく、後宮に入り浸り、様々な場所から連れてきた女たちと、明るい時間からいかがわしい宴に耽るのだろう。
怠惰な王に呆れていると、「レイナール、殿」と、声がかけられた。
顔を上げると、ジョシュア・グェインが自分を見下ろしている。はるかに高い位置に、顔がある。
「そういうわけだ。一緒に来てもらおう」
貴族たちがわらわらと出て行ったところで、レイナールはヴェールを取り去り、ジョシュアをじっと見つめた。一方的に観察されていたのだから、そのお返しだ。
白金の髪は背を豊かに流れ落ち、銀星の瞳がきらり輝く。
「よろしくお願いいたします」
一瞬、ぎょっと方を強ばらせたジョシュアに不信感を抱きつつも、「行くぞ」とぶっきらぼうに先導する彼の背を追う以外、今のレイナールにできることは何もなかった。
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