星読人とあらがう姫君(20)

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ライト文芸

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19話

 実家に雨子を置いて出てきたのは、いざというときに自分の身代わりにするためだった。背格好は似ているので、具合が悪いと布団に入っていればどうにかなるだろう。夜遅くになっても帰ってきていない、と騒ぎになることは避けられる。

 女御の寝所に息を潜めて座っているのは居心地の悪いことだった。本来ならばここは帝と桜花が契る場所だ。二人きりでなければならない。神聖な場所を穢しているような気になる。

 しかし仕方がない。露子は女の身で、帝に拝謁できるような身分でもない。こっそりと直接話ができる場所は限られていた。

「緊張していても仕方ありませんわよ、ねぇ、お姉様。白湯でも飲んで落ち着いてくださいな」

 自分の乳母に持ってこさせた白湯を、桜花は露子に渡した。受け取ってごくりと音を立てて飲むと、少し気持ちも落ち着く。

 湯呑を返してふぅ、と息を吐くと闇が不気味に迫ってきていることに気がついた。宮中はすでにすべての業務を終えて暗く、ここからはごく私的な時間なのだということを知る。

「こんな夜には悪鬼が宮中を歩き回っているんですわよ」

「見たことあるの?」

 ありません、と桜花は笑う。見たこともないのにどうしてそんなことがお分かりになるの、と言った露子の口調はやや冷たかった。そのことを自覚して、「ごめんなさい」とすぐさま謝る。桜花は柔らかい灯りに照らされた美しい顔を、少しも気にしていないという風に微笑で満たした。

「相変わらず、ですわね」

 桜花は貴族社会のしきたり、親の言いつけに唯々諾々と従っている。一度疑問に思ったら徹底的にやり合う、という信条の露子とは違う。昔はそんな桜花を、自分の意志のない女だと思っていたが、弘徽殿の主として生きている彼女を見ていると、それこそが、自分とは違う強さなのだろうとも思えてくる。

 従いながらも、周囲をよく見ている。誰が信頼でき、誰が自分を欺いているのか、彼女はその笑顔の下で判断し続けている。

 宮中にいる女房たちの顔を見れば、昔関白家で見た顔ぶれとは違っている。厳選を重ねたうえでの結果なのだろう。

 心から信頼できる人間だけを傍に置く。そのために桜花は、ひとつも文句を言うことなく、黙って笑って、油断を誘う。

 その目は父たる関白とよく似ている。身代りとしてやってきた幼子を、歓待する裏で値踏みしていた目だ。

「鬼や霊がいなければ、お姉様の旦那様は、お仕事がなくなるのではありませんか?」

「それとこれとは別よ」

 などと話しているうちに、桜花は「しっ」と人差し指を可愛らしい唇に当てた。耳をすませると微かな衣擦れの音と、回廊の板を踏みしめる軋んだ音がした。

 露子は桜花と顔を見合わせ、頷いた。すばやく几帳きちょうの陰に隠れて息を殺す。細い月の明かりは露子が忍ぶのを助けてくれる。

 戸が開けられ、男の影が現れる。ああ、兄弟だな、と露子は感じた。俊尚ほどではないが、目の前に現れた男もまた、背が高い。

 ぴしりと正座した状態で、桜花は深々と礼をする。後宮に入ることはすなわち、一人の男に仕えるということ。男女の関係であってもそれは変わらない。

「お待ちしておりました、主上」

 雅やかに佇んでいた帝は、桜花に呼ばれると、途端にふにゃふにゃとし始めた。眺めていた露子は呆気に取られる。

 帝といえば京で一番の貴公子だともっぱらの評判だ。頭がよく秀麗な細面で、和歌や漢詩にも造詣が深く、笛の名手。

 しかしその彼が、表情を崩して桜花の膝にごろにゃんと甘えている。なんなのだ、これは。

 呆然とした露子は、桜花の咳払いによって我に返った。桜花は帝の背をぽんぽんと叩き、座らせる。

 そこでようやく帝は、露子の存在を認知した。

「ぬっ! 何奴!」

 さっ、と露子は、額が床につくほど深く礼をした。本来ならば、こんなに近くで言葉を交わすことなど許されない。だからなるべく彼のことを見ないようにして、露子は「ご無礼だとは承知しておりますが!」と声を上げた。

「私、源俊尚が妻、露子と申し上げます。この度は奏上したいことがございます!」

「源俊尚が……妻」

 そう呟いて、帝はその後、「おお、そなたが!」と明るい声を上げた。

「面を上げよ。兄君の妻ともなれば、余の義姉君でないか」

「しかし……」

「それに義姉君となれば、元々は入内する予定だったではないか。今ここで会えて嬉しいぞ!」

 覚えていたのか、と露子は刮目した。正直三年も前の話だし、帝の気の迷いでしかない。てっきりもう、忘れているかと思った。

 やはり、ただの女好きな帝、というわけではない。関白に力を抑えられているが、彼は自分自身の手で政治を行える手腕の持ち主であろう。

「余に入内するのが嫌で尼になろうとしたという話だったか?」

「そんなことはありません!」

 否定のために勢いよく顔を上げた露子が見たのは、間近に迫ったからかい顔の帝だった。俊尚も整った顔をしているが、弟の帝はそれ以上だ。きっと、夫と違って、帝は表情が豊かだからだろう。人形のような冷たい美貌よりも、目に感情の宿る人間味溢れる方がいい。

「ようやくこちらを向いたな」

 にっこりと笑った帝に、不覚にもどきりとする。さすが女たらしの名をほしいままにする男である。

「それで話とは?」

 話を促す帝の顔を臆せずに、真っ直ぐに見つめた。微かな光に照らされた帝の顔は、何日も高熱でうなされていたような人間には見えない。健康そうな色艶を保っている。

「関白様が、夫にお話なさっているのを伺いました。主上が呪われ、寝込んでいる、と」

「ん? ん……うん」

 露子の言葉を聞いて、帝は一瞬何を言われているのかわからない、という顔をした。それからはっとして、桜花の顔を横目で見て、突然咳払いをする。露子もつられて桜花の方を見た。

 笑っている。目を細め、唇の端を持ち上げ。けれど彼女が全体として纏う空気は、周囲より冷たい。これは確実に、怒っている。

「……だから露子お姉様が、主上の体調を文でお尋ねになっていらっしゃったのですね」

 声から、さらに怒りは深いものなのだということを二人は判断した。露子はなんとか取り繕おうとして、

「あの、桜花様、違う、違うのよ? 聞き間違えただけかもしれないし、関白様の勘違いかもしれないじゃない?」

 と、早口に言う。しかし桜花は簡単に言いくるめられてはくれない。ふわふわに見えて聡いというのは、こういうところだ。

「勘違いで、お義兄様のところに依頼に行くものですか、あのお父様が!」

 キッ、と今度は帝を睨みあげる。普段は夢を見ているように伏せられていることが多い彼女の目は、きりりと見開かれていると印象が異なる。これはこれで美しいな、と露子は自分に矛先が向いていないのをいいことに思う。

「主上、正直に、お話してくださいますわね?」

 口元はにっこりと、目はまったく笑っていない。桜花の有無を言わせぬ言葉に、帝はしおしおと肩を落として、「……はい」と年若い妃に頭を垂れたのだった。

21話

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