ごえんのお返しでございます【12】

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ごえんのお返しでございます

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第二話 紅薔薇、白百合

 曇天の梅雨空は、低く感じる。頭のすぐ上に、分厚い雲が重くのしかかってきて、あまり好きではなかった。

 今にも雨が降りそうな窓の外を、ぼんやりと眺めながら、先日の古典の授業のことを思い出していた。

 古語の「眺む」は今と違って、「物思いにふける」という意味だ。そして「長雨」との掛詞にも使われる。

 ぽつり、と最初の雨の一粒が窓を叩き、僕を現実に引き戻した。

 デスクの前に座る白衣の男性――冴木さえき医師は、「雨が降ってきたね」と、微笑んだ。

 彼の前に出ると、僕はなぜだか緊張してしまう。ふさふさとひげを蓄えた顔は、父親の神経質な頬のラインとは、まるで異なっている。柔和な微笑は患者をリラックスさせる効果があるはずで、実際、彼は名医であるらしい。

 けれど、僕はいつも彼に対しては、必要以上に言葉を選んでしまう。常に緊張を強いられている。

「紡くん。最近、変わりはありませんか?」

 警戒心はとけない。僕の声には、自然と険が宿る。

「それは、姉さんですか、僕ですか?」

 冴木は、精神科の医者だ。本当は姉の主治医なのだが、姉は部屋から一切出てくることがないため、代わりに僕が通い、姉の様子を報告し、必要に応じて薬を処方してもらっている。

 本当なら、親が来るべきだと思う。けれど、スマホの通話のみとはいえ、唯一つながっているのは、僕だ。

 姉がいつか、自分から外に出たいと思う日まで、見守るのが僕の役目だ。

 市内で一番大きい総合病院は、バスに乗らなければならないし、予約時間になっても待たされることも多いが、使命感から、月に二度の通院をこなしていた。

 冴木の診察室は、ぱっと見は病院だということを忘れさせるつくりになっている。

 白い壁、床の素材は他の場所と変わらないのだが、淡い色で描かれた花畑の絵が飾ってあったり、季節に応じた飾り物がしてあったりする。

 梅雨真っ最中の現在は、窓枠にてるてる坊主がつるされているし、折り紙のあじさいが、先生越しに見える。

 テディベアのような風貌にふさわしい、太さのある指は、とても器用には思えないのだが、あじさいは皺ひとつなく、丁寧に折られている。

 看護師が作ったとばかり思っていたが、以前、何かの折にふと、「今回は苦労した」と語っていたから、彼のお手製だ。

 医者になる前に、ひととおりの科で研修を受けるらしいので、意外と外科にも適性があったりするのかもしれない。

 冴木は僕の目を見て、「どちらも」と言った。姉の主治医ならば、姉のことだけを気にしていればいいのに、彼は僕自身の話も積極的に聞こうとする。

『君は気づいていないかもしれないけれどね、お姉さんのこと、すべてを君が背負っている状況だろう? 知らず知らず、心に疲れが溜まっていても、おかしくはないんだよ』

 医者は、特に精神科医は、口が上手い。説得力がある。

 確かに、姉のこれからの人生すべてが、僕のこのか弱い肩にのしかかっていると思うと、急に重く感じた。

 親は老いるし、今のこの時点で、姉に対して何もしてくれない。将来的に変わってくれるという、希望的観測を抱くことはできない。

「別に、姉さんはいつもと変わりありません」

 気まぐれに電話がかかってくるのは、多いときでも週に一度かそのくらい。平気で一ヶ月、連絡が来ないこともある。こちらから電話をかけても、繋がらないことも多い。

 通話中の電子音が聞こえるから、僕以外にも、連絡する先があるのだということにホッとしている。

 姉の交友関係は、いまいちわからない。引きこもり以前でも、友人を家に連れてきたことはほとんどない。引きこもり後は、ネットを駆使して、知り合いを爆増させているかもしれない。

「この間かかってきたのは、ええと……事件のちょっと前ですね」

 声が自然と小さくなってしまった。

 篤久もまた、この病院に入院している。身体の傷は癒えたけれど、心の回復には時間がかかるらしい。病室へ行っても、刺激を与えることになるからと、面会謝絶が続いている。 

 家族ですら、長時間は病室にいられない。糸をよこせ、赤い糸だと暴れ始めるそうだ。

 この後、一応病室には寄るつもりだった。会えないことは百も承知だが、それでも僕は、他の連中と同じ薄情者にはなりたくなかった。

 決して優しいのではない。

 赤い糸に縛られていたとはいえ、一時的にでも付き合っていた人間のことを、美希は最初から、いなかった者として扱っている。

彼女の隣の席は、「俺、目が悪いんでぇ」というあからさまな嘘の理由によって、渡瀬が埋めてしまった。すでに篤久の戻る席は、あの教室にはない。担任も、もはや篤久のことを生徒と思っていないだろう。

 せめて僕くらいは、彼のことを待っていてやりたいのだ。愛想を尽かしてしまうほど、馬鹿なことをしでかしたけれど、彼が悪いのではない。

 悪いのは、きっと。

「そうか。篤久くんの……ちなみに、結さんとは何を話したのかな?」

 冴木は篤久の主治医でもある。この総合病院の精神科には、医師が四人いる。冴木は僕のよしみで、難しい状態の篤久のことも担当してくれることになった。ありがたいことだけれど、病気でもない僕のことまで、あれこれと聞いてくるのは、ちょっと嫌だった。

「別に。篤久のやつが調子乗っててちょっとむかつくって、愚痴を聞いてくれていただけです」

 ハーレム云々の話は、伏せておいた。やや過激ともいえる姉の思考を、大人相手におおっぴらに話す気にはなれなかった。そのくらいの分別はある。

 冴木は、ひげを弄る。僕はそんな彼を見ながら、そろそろ帰りたいなあ、と、ぼんやり窓の外を眺めた。

 緑が濃く、水滴を弾く。ここは二階だから見えないが、下にはあじさいが、折り紙の平面的な色とは違う、複雑な色彩で咲いている。

「それじゃあ、君自身に何か変わったことがあった……かな?」

 精神科医は、顔色を読むのが仕事だった。問いかけの途中から変わった僕の表情をもとに、確信を深めて尋ねてくるのが、気に入らない。

 口を噤むのも手だったが、それも彼の思惑通りで、癪な気がする。むっとしながら、「バイト、始めました」と早口で言う。

「うん?」

 絶対に聞こえているはずなのに、冴木はとぼけた様子で聞き返してきた。

「バイト! 始めました!」

 声を張った僕に、冴木は満足そうだった。電子カルテに何事かを記入しながら、朴訥な田舎の農夫を思わせる声で、優しく語りかけてくる。

「そうだね。いいことだよ。お姉さん思いなのは君の長所だが、他にも交流を深めていくことで、見えてくる真実もあるんだから」

 ?

 何を言っているのか、よくわからなかった。それに、交流する相手が「アレ」では、この医師も逆に心配になるのではないか。

 まあ別に、僕は患者でもなんでもないのだから、詳しく答える義務はない。

 それ以上話すことはなく、冴木は「いつもの薬を出しておくよ。君の分のビタミン剤も」と言った。

「別に、僕のはいらないです」

 と言えば、冴木は少し困った顔をして、「そんな血色の悪い顔をして、何を言うんだい」と言った。鏡がないため、冴木の表情から自分の体調を読むしかないわけだが、僕にはそんな芸当はできない。

 僕は医者に、特に精神科医には、向いていないらしい。

 なりたいと思ったこともないけれど。

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