星読人とあらがう姫君(9)

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ライト文芸

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8話

 烏がいなくなってから、手元に残された花橘を見つめ、露子は溜息をついた。雨子も神妙な顔をして、「どういう意味なんでしょうね……」と言う。

 二人の頭にあるのは、橘の花を詠んだ、とある歌だった。貴族で知らない者はいない。

 無駄だと思うことはしたくないという露子だが、歌や音曲、手習いは一通り学んでいる。

 文も歌も音楽も、他者との交流には必要不可欠だ。人間同士関わらなければ生きていけないのだから、円滑にできた方がいいに決まっている。

「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする……か」

 ぽそりと暗誦してみせたのは、古今集の夏の歌だ。

 ちょうど今の時期に咲く、橘の花の香りを嗅ぐと、過ぎし日に恋した人――今はもういないあの人の袖の香りがする。

 橘の花を見ると、皆が皆、この歌を思い出す。今目の前にある花は、昔の恋人を暗示する花なのだ。

 が、これを俊尚がどういう意図で贈ってきたのかわからない。十人並みの器量であるだけならまだしも、世間的な露子への評価は変人だ。

 身分の高い女は滅多に姿を晒さない。だから噂話が恋愛を支配する。本当は美人ではなくても、わざと絶世の美女であると宣伝をすれば、男は放っておいても寄って来る。あとは既成事実を作ってしまえばいい。

 父もそう考えた。のこのこと方違かたたがえを口実にやってきた貴公子を、「方違えなんて迷信、信じてるの? 他人が屋敷にいるの、すごく迷惑」と追い出した露子は、礼儀知らずの愚か者として知られている。そんな女に昔の恋人? 皮肉にもほどがある。

「私の噂話くらい、耳にいくらでも入ってくるでしょうに」

 けれど夏の暑さに涼を与えてくれる、この清々しい香りは嫌いじゃない。もしかしたら俊尚には、歌の教養が欠けていて、たまたま庭に花をつけた枝があったから妻に与えた。それだけなのかもしれない。

「あっ。わかりましたわ、姫様!」

 露子とともにじっと橘の花の枝を見つめていた雨子がぽん、と手を打った。

「きっとこれは、花橘の衣を姫様にお召しになってほしいという旦那様からのご希望なんですわ!」

「花橘……ってどんなのだっけ?」

 不美人であるという自覚のせいで、、露子は最低限の身だしなみさえ整っていればいいと思っている。なので女房たちに言われるがままに着物に袖を通しているため、襲に関してはいまいち理解をしていない。

 呆れながらの雨子の解説によると、花橘の襲というのは、端午の節句以降、すなわち今の時期によく着用する色である。

「夏ですし夫婦の関係ですからね」

 十二単で何枚も重ね着をするわけではない。極めて私的な場面で着用するのは小袿こうちきだ。その表が朽葉色くちばいろ、裏が青であるものを花橘のかさね、という。

「それを着ろっていうの? 私に?」

「絶対そうですよ!」

「……そんなの持ってたっけ……?」

 ありますよ、私たちが頑張って縫ったんですから! と主張する雨子を信用して、次の日は花橘の重の着物を纏うことにした。

 しかしやはり、俊尚は感情の籠らぬ目で露子を見下ろすだけだった。触れ合うことなど一度もなく、一瞥しただけでふいと視線を逸らし、つぼねを出て行ったのだった。

 結局橘の花に込められた俊尚の気持ちなど、露子にはわからないままだった。

10話

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