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<10話
心底呆れたように、信じられないように、風子以外の誰かが聞けば、そんなニュアンスを感じ取っただろう、「はぁ?」である。
しかし、ここにいるのは風子だけだ。他人の心の機微には、人一倍疎い。
彼女は身をくねらせると、クッキー作りに力を入れている理由を勝手に話し始めた。
相変わらず支離滅裂というか、時系列やなんやらを無視した、思い浮かんだことから喋るという、読解力の限界を試されるものだったけれど、どうにか理解に至った。
私がバレーボール部に入ってから、風子はひとりで帰っていた。クラスメイトの誰それさんが駅までは一緒に行ってくれることもあるけれど、逆方向の電車に乗るから、電車に乗ってからは基本的に単独行動だそうだ。
それは、六月の終わりのこと。
その日は、昼間の事故の影響が放課後まで続いていて、電車が遅延していた。混雑した車内に、生徒たちがみんな乗り込むものだから、ぎゅうぎゅうに押される。
隣の乗客との距離が近く、夏服の素肌同士がぺとぺととくっつきそうになる不快さに耐えていた風子は、明らかに意志を持った手の動きに、しばらく気づかなかったという。
「痴漢!? 大丈夫だったの?」
風子はいつもぼんやりしている。痴漢に遭遇したところで、咄嗟に叫んだり、現行犯で確保したりできるはずがない。
どうして私のいないときに限って、そんな事件が起きるのか。やっぱり部活なんて辞めて、風子の傍にいる方がいいんじゃないのか。
私の苦悩をよそに、風子は頬を染めた。性被害に遭ったとは思えない反応である。これはおかしい。話の先を促すと、風子はひとりの男子高校生に助けられたという。
「おじさんの手を掴んで、『次の駅で降りろ』ってものすごく低い声で脅かしてね。おじさん、悲鳴上げてたよ」
迫力のある学生だったようだ。彼は痴漢の手をずっと掴んだまま、次の駅に停車したところで、他の客を掻き分けて下車した。被害者の風子にも声をかけ、一緒に降りて、駅員のところに行った。
「事情聴取っていうの? で、帰るのが遅くなっちゃったからって、わざわざうちの近くまで送ってくれたの」
「ふーん」
私が注目したのは、「近く」というワードだった。家まで、じゃなくて「近く」までしか行かなかったのは、風子の保護者に対する遠慮だろうか。それとも、いらぬ誤解を生まぬための保身か。
どんな人なんだろう。なんとなくのイメージでは、柔道とか空手をやっていそうな、ゴツくて武道一筋! っていう感じか。
真面目で誠実な男ならば、クッキーを渡すことくらいは、認めてあげなくもない。
興味を覚えて風子に聞けば、にやにやしながら教えてくれた。
「えっとね。制服は学ランで、マンガの王子様みたいだったの」
「王子様?」
それは抽象的すぎて、ちょっとわからない。
「うん。金髪の王子様!」
自分を助けてくれた男のことを話す風子は、女の子の顔をしていた。やんちゃな男児のように、虫や鳥を追いかけたり、一心不乱に草を掻き分けたりしている日常の姿からは、とても想像ができないくらい、可愛い顔。
メイクを施していたときより、よっぽどキラキラしている。
普通の男の子相手だったら、応援してもよかった。けれど、どう考えてもこの日本に金髪の男子高校生は、まともじゃない。
そもそもあの路線に乗っていて学ランの高校といえば、ひとつしかない。偏差値も低く、ガラの悪い男子ばかりが通っている、工業高校の生徒だ。
絶対に紳士なんかじゃない。同級生の噂話では、あの工業高校の生徒は、しょっちゅううちの学校の生徒をナンパしているらしい。
一応共学だけど、制服姿の女の子は見たことがない。同じ駅を使っているものだから、先生たちは対策に頭を悩ませているという。
そんな奴に、風子を好き勝手されたくない。
私の懸念をよそに、風子は頬に手をあてて、夢見る夢子ちゃんになっている。
「電車の中でたまに見かけるんだけど、お礼できなくて……それでね、ののちゃん」
男の子って、クッキーとか好きかなぁ?
のんきに尋ねてくる風子に、反射的に「やめときなさいよ!」と、叫びかけてぐっと押さえた。
ちょっと待って。ここで制止して、風子が想いを募らせていくよりは、はっきりきっぱりと断られてしまった方がいいのでは?
幸い、風子には私という親友がいる。いくらでも慰めてあげられるし、そのうち失恋の痛手は癒える。
私は無理矢理笑顔を浮かべて、うんうんと安請け合いした。
「フーコのクッキーは美味しいから、きっと喜んでくれるよ。そうだ。ラッピングもどうせなら、めちゃくちゃ可愛くした方がいいよ!」
甘い物が食べられるかどうかはわからない。たとえお菓子が好きだったとしても、手作りのものはNGということも考えられる。
それに、相手は男子高校生。周りに同級生がいる中で、女の子から可愛らしい包みの手作り品を受け取ることは、恥ずかしくてできないだろう。
うぜぇんだよ、と突き返される。そんなビジョンしか見えなかった。
彼女の母が家を出て行ったのは、十六の頃だったという話だ。風子はちょうど、その年になる。
カエルの子はカエル。そんな嘲りを許すわけにはいかない。
「ピンクのリボン、あったかなあ」
ラッピングに想像を巡らす風子を見ながら、ちくりと多少、胸は痛む。
これでいいんだ。
言い聞かせ、私は彼女の相談に乗った。数学のテスト勉強は、結局何も進まないままに終わった。
>12話
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