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<15話
夏織が大学を卒業し、役所勤めになり、一人暮らしを始めてからも、ずるずると彰との付き合いは続いた。アパートの家賃を支払えなくなった彰は、夏織の部屋でだらだらと過ごすようになった。
出会った頃は彼も大学生だった。その頃はまだ、彰もまともだった。大人の社会の枠にはまらないことをしたい。そんなわけもわからぬ理由で退学をすると、ダメ人間街道まっしぐらだった。
夏織が学生であるうちは、それでもよかった。モラトリアムの中で生きている間は、現実なんて見えないものだ。
しかし働き始めると、社会の厳しさや世間の目というものを、夏織は気にするようになった。
彰は年甲斐もなく、「ビジュアル系バンドを組んで、有名になる」「動画配信で儲ける」などと言い出し、夏織を困惑させた。
何事もインパクト勝負だと言って、奇抜な色に髪の毛を染め、化粧をし始めた。
歌もお世辞にも上手いとは言えないし、楽器もできない。格好だけは一人前だが、仲間を募ったり、肝心の具体的なコンテンツを考えることもしていなかった。
ふわっとした夢を抱き、自分の中の無限の可能性を根拠なく信じている彰との間で、諍いが絶えなくなっていった。
喧嘩をすると、彰は部屋を出ていく。一人残された夏織は、後悔と寂しさで涙を流す。
おそらく彼は、飲み屋で知り合った女たちの部屋を転々として過ごすのだ。それがまた、悔しい。
手持ちの金がなくなれば、彼は夏織の元に戻ってくる。そのまま部屋に居つくこともあるし、金を受け取るとすぐに、他の女のところに消えてしまうこともあった。
彰が家出から戻るまでの時間は、徐々に長くなっていった。潮時か、と彼のことを忘れて過ごそうと思ったときに、夏織は文也と一夜の過ちを犯してしまった。
文也の交際に頷いたのは、彰のことを完全に吹っ切れるために、よい機会だと思ったのもあった。
だが、本当によいことだったのだろうか。
ある日、自分のアパートに帰宅すると、彰が帰ってきた。すまなかった、と真摯に謝罪をすると、夏織の唇に噛みつくばかりのキスをした。これまでどおり、仲直りのセックスをしようとしたのだ。
夏織は拒むことができなかった。また、ずるずると関係を引きずってしまった。文也との交際を決めたのに、飽くことなく彰に抱かれた。
文也は真面目な男だ。婚前交渉をよしとせず、彼としたのは、酔った勢いの最初の一回きりだった。
『あの一回でできちゃうなんて、この子はものすごく、運のいい子だね』
目を細めて夏織の腹を撫でる文也を見る度に、気が狂いそうだった。他の男の種の可能性が高い、なんてとてもじゃないが、言えなかった。
引っ越しのタイミングは、また喧嘩をして彰が出て行ってしまったときを狙った。一度家出をすると、彼は二ヶ月は戻らない。彰のような人間は、役所が嫌いだから近寄りもしないだろうが、退職もしたことだし、行方をくらますことに成功したといっても過言ではないだろう。
病院以外は外出を控えている。見つかったらきっと、彰は自分を脅迫して金をせしめようとする。
でも、それ以上に、自分が文也を裏切って、彰に身を委ねてしまいそうな気がして、夏織は怖かったのだ。
「大丈夫。大丈夫……彰はこの家を、知らないんだから……」
夏織はぶつぶつと呟きながら、手紙を引きちぎっていった。
しかし、本当に送り主はいったい、誰なのだろうか。自分と彰の関係を知る者は、ほとんどいないはずだ。
一瞬、脳裏を明美の顔がよぎったが、首を横に振った。彼女はずっと、彰と別れろと忠告をしていたのだ。これ幸いと夏織を庇い、彰に居場所を知らせることなどしないし、こんな風に夏織を追い詰めることはないと断言できる。
じゃあ、誰が。
夏織は心当たりがないか、考える。誰か、自分を疎ましく思っていて、なおかつ彰のことを知っている人間はいないか……。
「……いるじゃない」
思い出した。一人、疑わしい女がいるではないか。夏織を憎んでいるあの女。百合子だ。
彰に呼び出され、昼休みに職場近くで金を渡したことがある。そのシーンを、百合子に見られていたのだ。
『あれ? 今の誰ぇ? 超イケメンじゃなかった?』
百合子の前では、夏織のプライバシーなど存在しないに等しかった。現場を押さえられてしまったので、知らない人ですというのは通用しない。
夏織は咄嗟に、「不肖の兄です」と説明したが、うまくごまかせた自信はなかった。百合子は「ふぅん」と頷いていたが、夏織を胡乱な目つきで探るように見ていた。明らかに信じていなかった。
間違いない。あの女なら、夏織の元のアパートの住所も調べられるし、このマンションのことも知っているだろう。
ふつふつと怒りと憎しみが湧いた。
もう、限界だった。
>17話
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