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<29話
改めて買い物に行くのも面倒で、雪彦は冷蔵庫の残り物で、ささっと夕飯を作った。立派な冷蔵庫が設置されているくせに、幹也はほとんど料理をしない。
「おいしい」
共働き家庭のうえ、病弱な弟がいたため、早いうちから雪彦は、自分でできることは自分でやるようになっていた。料理はそのうちの一つで、炒めたり煮たりするだけの名もなきメニューだが、味はそこそこだ。
箸の持ち方もきれいだし、ちゃんと挨拶もして、完食したうえ味の感想もしっかりと述べる幹也のために食事を作るのは、満ち足りる行為だった。
その後、勉強したりだらだらしたりして、夜も深くなってからベッドに入る。枕元に置いた幹也のスマートフォンが長い着信音を奏でる。
「出なくていいのか?」
「うん……」
暗い様子の幹也は、着信を拒否し、そのまま電源を落とした。この時間だし、緊急連絡だったらどうするのか。そう思ったが、幹也は「大丈夫」の一点張りであった。
大柄な男二人が寝転んでも、それなりにゆとりのあるサイズなので、睡眠に問題はない。空調を調節してから、「おやすみ」を言い合って目を閉じた。時折触れ合う温もりに癒されながら、雪彦は深い眠りに落ちていく。
普段はあまり、夢を見ない方だ。しかし今日は、気づけば海にいた。夢であるという自覚はなく、服を着たままで砂浜から海へ歩き出すおかしさに、何の疑問も浮かばなかった。
ネイビーブルーは底が見えない。雪彦はゆっくりと、沖に向かって歩いている。着ていたシャツが水に濡れて重い。けれど、足を止めることはない。
肩まで水に浸かったときだった。何者かに足を掴まれて、転ばされた。雪彦は海中に引きずり込まれた。そのときようやく、これが現実ではないと理解した。
暗い海の中で光る目は、化物ではない。徐々に近づいてくるその輪郭は、明らかに雪彦のよく知る人物であった。
夢ならば、都合よく海中で息ができてもいいのではないか。けれど雪彦は現実と同様に、えら呼吸などできなかった。
苦しい。どうして。
こいつが俺を苦しめるはずがないのに。
雪彦の足を引いて、窒息させようとしているのは幹也だった。彼は全裸の状態で、雪彦の脚に絡みつき、腿の辺りに口づけをする。蕩けた表情は、雄弁に雪彦への好意を語っている。
ああ、早く覚めてくれ。現実の俺の身体。そうじゃないと、俺は……。
死ぬ、と思ったその瞬間、ようやく夢の世界からの帰還が叶った。けれど現実でもなぜか息苦しくて、雪彦はがむしゃらに腕を振り回して、原因を退けようとする。ちょうど何か硬いものにヒットして、ようやく呼吸が可能になった。
咳き込みながら、雪彦はベッドサイドの間接照明のスイッチを手探りで入れる。
「……くず、のは?」
雪彦の身体の上に馬乗りになっていたのは、幹也だった。ぼんやりとした目をしていた彼は、雪彦の恐る恐るの呼び声に反応して、正気に戻る。
「おまえ、どうして……?」
はっきりと残る首の違和感が、悪夢の原因は、彼に首を絞められたことによるものだと教えている。本気で首を絞められたら、呼吸ができずに死ぬより先に、首の骨が折れて死ぬ可能性が高い。雪彦は、法医学基礎の講義で聞いた、首吊り自殺の死因の話を思い出して、ゾッとした。
幹也は慌てて雪彦の身体の上から降りた。
「ごめんなさい。俺、寝ぼけてたみたい」
「寝ぼけてたって……」
にへ、と笑ったけれど、眉毛が困ったように下がっている。見ようによっては泣きそうで、雪彦は思わず、彼の頬に手を伸ばした。しかし、実際に触れることはなかった。近づいてくる気配を察知した幹也が、身体を翻して、雪彦に背を向けてしまったせいだ。
「ほら。まだ夜中の三時ですよ。寝ましょう寝ましょう」
大事にしたくないという態度は丸わかりで、幹也はその後、何度呼びかけても振り返ることはなかった。雪彦は諦めて、彼の隣に転がる。
寝ぼけて人を殺しかけるなどということが、あるだろうか。しかも、どちらかといえば好意を抱いている人間を。
いや、好かれているというのは、最初から雪彦の勘違いなのかもしれない。幹也は自分のことを、理想のご主人様とは言ったが、それ以上の評価はしなかった。身体の関係だけでよかったのに、余計な感情を抱きやがって、と思っているのかもしれない。
自分に背を向けている幹也は、本当に寝ぼけていただけなのか、安らかな寝息が聞こえてくるばかりだ。
「なんなんだよ……」
完全に眠気の飛んだ雪彦の零した言葉は、彼の耳には届かない。
人殺し。彼の兄が言った言葉を思い出したが、雪彦は首を横に振った。
>31話
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