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<7話
「ごめん、神崎。遅れた」
「おー。実験終わったのか?」
うぅ、と彼は泣きそうな顔を作った。そんな表情を見るのは初めてだった。
隣に座る光希は、まず現れた人物の背の高さに、次に美しい顔立ちに驚いたようだった。決して女性的ではないのに、「格好いい」「イケメン」という言葉よりも、「美しい」という絶対的な形容詞が似合う、彼。
「この子が小澤の弟? 初めまして」
「五十嵐千尋。俺の友達。理学部化学科で、受験科目は物理と化学だったから、たぶん光希の役に立つと思う」
ごく自然に発せられた千尋の「初めまして」とは反対に、光希の声は上擦っていた。
「は、初めまして! 小澤光希です! ええと、兄ちゃんとやっくんが、お世話になってます!」
「おい。お前の兄ちゃんはともかく、どっちかといえば俺が五十嵐の世話してる方だぞ」
本当の兄弟のような気軽なやり取りに、千尋はくすくすと笑っている。恭弥だけがぽつんとひとりぼっちだ。千尋が目の前で微笑んでいる衝撃に、頬が火照ってくる。
切れ長の瞳をより細めて神崎と光希のやり取りを見守っている千尋は、どこからどう見ても男だった。あの日の女装の面影はない。ちくりと胸が痛む。こんなにも好きなのに、それを言葉にすることは、恭弥にはできない。
女装コンテストのステージの上で、巫女装束に身を包んだ千尋は、恭弥にマイクを向けた。呆然と彼の名を呼んだ恭弥に対して、千尋は首を傾げるに止まった。
つまり、千尋は自分のことなど、これっぽっちも覚えてはいなかったのだ。出会ったあの日のことを、恭弥は一日たりとも忘れたことはなかった。今の自分がいるのは千尋のおかげだと思っている。
しかし千尋の頭の片隅にさえ、二つ下の小さな少年の姿は存在しない。そんな相手に「好きです」と伝えたところで、何も起きない。ただ気持ち悪いと思われるのが関の山だ。
一見すると冷たく見える美貌なのに、千尋の微笑はそうと感じさせない。ぼんやりと見つめていると、彼と目が合った。
「おっと。こっちの紹介忘れてたな。光希の国語とか英語とか見てくれてる、御幸恭弥だ」
「御幸……あぁ、ミスター・かぐや姫グランプリの!」
彼の記憶にある「御幸恭弥」は女装コンテストの参加者という側面しか持たない。それが悲しくて、悔しい。でもそんなネガティブな感情を露わにするには、恭弥はプライドが高かった。
「ええ、はい。その説はどうも」
あっさりと気にしていない態度を取った。
「素顔も変わらないんだね。すごい」
のほほんと告げる千尋に、あからさまに神崎の機嫌が急降下した。雑談はおしまいだ、と光希の理系科目をどうするかの相談を進める。
「記憶力は悪くないので、暗記でどうにかなる二分野はそう悪くないんですけど」
「物理・化学はインプットしたものをそのまま出すわけじゃないからね。理解して、考える癖をつけなきゃ。それに高校入ってから最初にやる理科ってだいたい化学だから。今から苦手意識を克服しておくに越したことはない」
すらすらと淀みなく述べる千尋は、今でも塾で講師のバイトをしている。これは頼りになる。さすがは五十嵐先輩だ。
「……でもね、今俺、ものすごく実験が大変なんだ……」
中学高校の頃から色白だったが、千尋の顔は健康的な白さではなく、疲労から来る青白い色になっていた。目の下には隈もできていて、見るからに不健康だ。
「それなのに家庭教師なんて引き受けて、大丈夫なんですか? 報酬が出るわけじゃないんですよ?」
恭弥の言葉に、千尋は「うん、それなんだけどね……」と奥歯に物が挟まったような言い方をした。千尋の目配せに、神崎が言葉を引き取る。
「報酬はいいんだけど、実験で大変だから御幸の家に泊めてやってくんないか? 飯は材料さえ与えればこいつが勝手に作るから」
現在千尋が手掛けているのは生きた細胞を使った実験だという。無機物を扱うのに比べて、生物の反応は千差万別で、望む結果が得られるまでに時間がかかり、終電を逃すことも多い。
千尋が一人暮らしをしているマンションまでは大学から駅二つで、歩けない距離ではないのだが、何せ疲労困憊しているので、それもしんどい。
恭弥の部屋ならば大学の裏手すぐなので、千尋にとってもありがたいということだった。
「土曜日泊まりで勉強会してんだろ? そこに五十嵐も入れてやってくれ。土曜日は役に立たないけど、日曜日にはみっちり理科と数学教えてやれるくらいには回復するはずだから」
それでどうだ? と神崎は恭弥に問いかけた。そこには何の確執もなく、ただ弟分の光希が目標を達成することだけを願っている。
恭弥だけが意識をしているのだと、思い知る。恋心も、敵対心もすべて、相手は何も返してくれない。神崎も、千尋も。
神崎と千尋は、確かに信頼し合っている。二人を繋ぐ糸が見えるようだ。千尋から神崎へ伸びた糸は、色を変えて光希へと伸びていく。続いていく関係の糸の中、自分だけが点として存在しているような錯覚。
「御幸さん。駄目かな? 俺、本気で海棠に合格したいんだ。そのために、五十嵐さんの力を借りたい」
勝手に抱いた寂寥感は、光希に話しかけられたことで払われる。想いの糸は恭弥にも繋がっていた。ほっとして、恭弥は「わかりました」と言った。
神崎は「交渉成立だな」と笑った。
「じゃ、日曜の夕方には俺が五十嵐と光希のこと迎えに行くから、よろしくな」
「……は? え? あなたが?」
>9話
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