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<33話
なんとか発情期を乗り切り、二日ぶりにまともな食事にありついていた日高は、早見の服装に違和感を覚えた。
普段、人前に出るわけでもない在宅ワーカーである彼は、清潔感があり、だらしなく見えない程度のカジュアルな服装を好んでいる。
しかし、ひとりで朝食をもそもそと食べている日高の前で、支度をしている今日の早見は、なんとジャケット姿であった。
高級そうなワインレッドの生地でできたセットアップは、彼の冷たく整った容貌に、しっくりと似合っている。ワイシャツではなく、黒ハイネックのカットソーを着ているのは、彼なりの「はずし」なのかもしれない。
しばし見惚れていた日高だが、すぐに、どうしてこんな格好をしているのだろう、と疑問を抱いた。家の中で過ごすのに、ジャケットなんて、必要ない。
「どこかに行くんですか?」
尋ねると、早見は口ごもった。これまで、彼がひとりで出かけたことは何度もある。基本的には電話やメールなどの手段で打ち合わせをするのだが、直接対面でやりとりをする場合もある。
そういうときには、必ず「担当と会う」「何時には帰る」というのを伝えてくれたのに、今日は違う。
後ろめたいことがあるに違いない。日高はカレンダーを脳裏に思い浮かべ、気づく。
「今日って確か」
まだ読み終えておらず、常に携帯している文庫本を取り出した。
「この映画の、公開日!」
一瞬告知を見ただけだったけれど、日高はきちんと覚えていた。普段よりもかっちりとした身なりは、人前に出てもおかしくない。髪の毛もセットして、寝ぐせひとつついていない。
公開初日のイベントに、原作者である早見も招待されているのだ。まさしく晴れ舞台である。ただでさえ美丈夫の彼がドレスアップして、大勢の前で喋るのだ。想像しただけで、興奮する。
「俺も見たい!」
自分を差し置いて、その他大勢の観客が、早見の格好いい姿を見るなんて、ずるい。早見のジャケットの袖を引き、日高は懇願する。
「駄目だって言っているだろう」
強く振りほどかれても、日高は決して諦めなかった。
これまでずっと我慢してきたのだ。特等席で見たいなんて言わない。会場の隅、舞台裏からそっと見守るだけで構わない。
「早見さん!」
土下座でもすれば許されるのか。攻防を繰り返していると、メレンゲが鋭く吼えた。今まで一度も聞いたことのない声に、日高も早見も、口論を止めて彼の方を見る。
メレンゲが吼えたのは、玄関に向かってだった。早見がまだ家の中にいるのに、鍵が回った。そして、日高にとっては見知らぬ人物が侵入してくる。
>35話
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