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<34話
「先生~。もう待ちくたびれましたよ! 支度に何時間かかるんですか! デート前の女子じゃないんですよ!」
三十歳くらいの女性だった。パンツスーツにヒールが低めのパンプスは、いかにも仕事ができそうなキャリアウーマンという感じだ。早見のことを「先生」と呼んだことから、おそらく出版社の担当編集なのだろう。
山奥のひとり暮らし、家族もいない早見が、念のために合鍵を渡していても、おかしくはない。
彼女はまず、自分に唸り声をあげる大型犬を見つめた。見た目は綿菓子だが、彼女の知るプードル犬の何倍も大きい。恐怖心を覚えたのか、一歩後ずさっている。
「こら! メレンゲ!」
番犬の役目を果たしてくれるのはありがたいが、彼女は早見を迎えに来た客人である。日高は飼い主の義務として、彼の傍に寄り、唸るのをやめさせる。
……誰かが来たときは、部屋に鍵をかけて閉じこもること。
早見との約束を思い出したのは、彼女とばっちり目が合ってしまってから。
慌てる早見よりも先に、反応したのは編集者の方だった。彼女は頬に血をのぼらせて、日高に人差し指をつきつけた。
「浦園日高!」
正確に自分の名前を言い当てられて、日高は完全に動きを止めた。メレンゲを抱え込んだままの状態である。触れた箇所から日高の動揺を敏感に感じ取ったのか、メレンゲは牙を剥いた。完全に敵だと認識してしまっているが、日高は、今度は止めようとしなかった。
どうして、彼女が自分の名前を知っているのか。
早見が話したのか?
いや、日高を決して外に出そうとしない頑なさだ。それはない。
じゃあ、なんで?
日高も混乱しているが、目の前の女性も相当困惑しているらしい。興奮した口調で、
「私、ファンなんです! ミラクルレッド好きで……」
と、日高に手を伸ばしたすぐ後で、首を傾げる。
「ん? ミラクルレッドって……? それより、どうして? 映画にも出てもらった、はずで……あれ、出てたっけ?」
「石塚さん!」
早見の鋭い声に、呼ばれた女性は我に返った。
「今日のイベントは、欠席で。どうせまた、公開途中にもやりますよね? 大ヒット御礼とか言って。そのときに、出ますから……体調不良とでも言っておいてください」
その大きな身体で日高を隠した。
「ここに彼がいることは、他言無用でお願いします」
「でも」
「お願いします!」
強く言い切り、早見は石塚を追い出した。
しばらく彼女は扉を叩いていたが、やがて
車のエンジン音が聞こえ、遠ざかっていった。
>36話
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