逃げ切れなかったら、どうしよう?
ここまで乗ってきた車は、分岐のない山道にさしかかったところで乗り捨てた。そのまま道なき道へと入り、藪を掻き分けて山を登る。
獣道とはよく言ったもので、クマとの遭遇を注意喚起する立て看板が、半分朽ちた状態で傾いていた。
「っ」
薄暗い夕闇は、日高の姿を追っ手から隠してくれるが、その分自分も辺りが見えなくなる。鋭い枝でいくつものひっかき傷ができ、気づかずに蚊柱へと突っ込んでいく。
心臓が、耳の真横で鳴っているような気がする。
それでも日高は、歩みを止めるわけにはいかなかった。体内の熱を逃がそうと、なるべく深く息を吐く。
ポケットの中の二種類の錠剤のうち、一方は、助けに来た親友が、自動車とともに差し入れてくれたものだ。
先程飲んだのは、何時頃だっただろう。連続して飲むような薬ではないのだ。
もはや時間の感覚もなく、日高は震える指でシートから白い薬剤を押し出し、水なしで無理矢理飲み下した。
効果が出るのを待っている暇はない。チリチリと微かな疼きを訴えるうなじを押さえた。長めに伸ばした髪の毛と、フードのある服でなるべく隠しているそこは、日高の最大の弱点である。
うなじを噛まれれば最後だ。自由な生活はなくなってしまう。子を産み、育てるだけの生活が待っている。オメガにはそういう生き方しか、許されていないのだ。
法律で保証されたオメガの人権は、実際の現場では何の役にも立たない。法を定めているのはアルファで、行使するのもまた、その多くがアルファだ。この世はとかく、彼らに都合のいいように出来ている。
高校卒業前に母が死に、それからはひとり、アルバイトでどうにか生計を立ててきた日高には、社会の世知辛さが身に染みていた。
幸い、今のバイト先の店長は妹がオメガということもあって、日高の面倒なシフト調整も、文句ひとつ言わずにしてくれている。以前のバイト先は、もっとひどかった。思い出したくもない。
数人いた同級生のオメガたちは、卒業後、すぐにアルファの元に嫁いでいった。親同士が決めた相手だ。顔も知らない相手と結婚したくないと言っていた彼女たちも、最終的には屈した。
諦めきった空虚な笑顔で、あくまでも抗おうとする日高を諭した。
結局私たちは、アルファの元に身を寄せるのが、一番幸せなのよ……。
「はぁ……」
ようやく熱が引きつつある身体を引きずり、開けた場所を目指す。
逃亡者である日高の目的地は、湖。ひいてはそこに浮かぶ小島にある、神社だった。
>2話
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