愛は痛みを伴いますか?(1)

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BL

「ずっと探していました! 俺のご主人様!」

 震える声で呼びかけられて、雪彦ゆきひこは一瞬、今自分がどこにいるのかを忘れかけた。

 弟の見ているアニメで、似たようなシーンがあった。トラックにひき逃げされた主人公が、次に目を覚ましたのは異世界。可愛い女の子に「勇者様!」と、呼びかけられる冒頭だ。その後の展開は知らないが、物語のテンプレートにのっとるのなら、ヒロインと主人公は多分、くっつくのだろう。

 残念ながら、雪彦がいるのは異世界の森ではなく、一号棟の廊下。中国語の講義を終えて、看護学科に通う女子と待ち合わせ、キャンパス外のカフェにランチに行く途中であった。

 進学校出身でなく、予備校時代の知り合いも一人もいない雪彦にとって、語学クラスが一緒なことから親しくなった友人は、貴重な存在だ。

 祖父も親も医者、病院経営に携わっているという裕福な彼らは、安くて速いだけが取り柄の学食には、行きたがらない。雪彦にしてみれば、十分に「美味い」も備わっていると思うのだが、口にすることはなかった。

 一人につき一人、キラキラしたメイクの女子が腕にぶら下がる。他の三人はどうか知らないが、雪彦と彼女は、付き合っているわけではない。狙われている臭いはぷんぷんとするが、雪彦はまるっと無視を決め込んでいる。

 その彼女も、「ご主人様」と呼ばれた雪彦に対して白い目を向けて、パッと腕を離していた。

 いや、本当にどうしてこうなったんだ。

 俺はただ、いつも通り、目の前で起きている揉め事の、火の粉を振り払っただけ。

 雪彦自身の知り合いは、語学のクラスメイト以外は皆無だが、友人たちは医者の息子ネットワークで、浅く広く繋がっていた。

 廊下の真ん中で、怒鳴り散らしている学生を見て、仲間の一人が「あっれ? 菅原すがわらじゃん。何してんの?」と、声をかけた。雪彦は彼の行動にぎょっと目をむいた。

 どうして自分から、面倒なことに首を突っ込みにいくのか。この空気を、お前は読めないのか。

 菅原と呼ばれた男は、舌打ちしながら振り返って、声の主を確かめると、媚びた笑みを無理矢理浮かべた。彼は白衣を着ており、その肩口は黒い大きな染みになっている。菅原に絡まれていた当事者の青年が手にする紙コップから察するに、ぶつかってコーヒーが零れたのだろう。ふと廊下を見れば、氷も転がっている。

 ホットじゃなくて不幸中の幸い。

 雪彦はそう思ったが、どうやら菅原は違うようだ。廊下中に響き渡る声で怒鳴った。

「どうすんだよ、お前! まだ買って一ヵ月も経ってねぇんだぞ!」

 医学生に白衣は必須アイテムだが、本格的な講義や実習は五月に入ってからのスタートだ。今はまだ、白衣は必要ない。にもかかわらず、菅原はパリッと糊の効いた白衣を着こなしている。

 菅原の隣には、派手な格好をした若い女がいる。おそらく、うちの大学の学生ではない。医大にはさすがに、金髪にカラコン、長いネイルの女子はいない。他大学に通う彼女に、いいところを見せたくて、白衣を着て闊歩していたに違いない。

 しかし、格好いい姿を見せたいのなら、コーヒーを零した青年相手に強く叱責をするのは悪手だ。失敗を執拗に責める男よりも、寛容に許す男の方がモテる。飲食店で店員に威張り散らす男に、女が愛想を尽かすということを、彼は知らないのか。

 ぶつかってコーヒーを零した青年は、ひとまず「すいません」と謝罪した。しかし、頭を上げた彼の表情は、強かである。反省も反発もなく、ただ事実だけを淡々と指摘する。

「でも、実験棟や附属病院以外での白衣の着用は、厳禁ですよね」

 薬品、あるいは血液で汚染されることも多い白衣を、むやみやたらに羽織らないように。

 入学ガイダンスであれほど口を酸っぱくして言われたのに、女にいい格好をしようとした菅原が、そもそも悪い。

 反撃されるとは思っていなかったのだろう。菅原の顔が真っ赤になる。しかも、頼みの綱の彼女からも、「それに、ぶつかったのはまーくんの方じゃん」と、背後から撃たれてしまう。

 全面的に悪いの、あいつじゃん。

 興味本位で揉め事の一部始終を眺めていた学生たちは、「なんだ」と、菅原に呆れた目を向ける。菅原は侮辱されたと取り、目が真っ赤だ。対照的に顔色ひとつ変えない相手に、イライラを募らせている。コップぎりぎりまで張った水と同じで、今にも感情が爆発しそうに見える。

2話

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