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<【42】
呼吸が整ったところで、僕は母に、「もう大丈夫だから」と言い残して、大輔のところへ行くと告げた。
行先を言うなんて、学校で指導されたときには、小学生みたいだと思った。けれど、このセリフの後に無言で出て行ったとなれば、母は僕も自殺するのではないかと、不安に駆られるだろう。
「心配だったら、大輔さんに確認していいよ」
言い置いて、暑い真昼の商店街へと向かった。
いつもは買い物客や、途中で出会った顔なじみとの雑談で盛り上がっている人たちがいる商店街だが、この時期は暑すぎて、基本的にまだ、外へ出るのがおっくうな時間だ。出歩いている人は、ほとんどいない。
いっそのこと店を閉めた方がいいのではないかと思うが、そうもいかないらしい。
金物屋のおばあさんは、アスファルトに打ち水をまいていた。すぐに蒸発してしまいそうな気温で、これぞまさしく、焼け石に水。笑う気にはならないので、思考をぐるぐるさせて、やっぱり現実から逃げている。
そうこうしているうちに、肉のフジワラにたどり着く。
最初に気づいたのは、おばさんだった。暑くても元気に、彼女は出迎えてくれる。
「いらっしゃいませー」
言ってから僕を見て、「あら、あんた大丈夫なの?」と、眉をひそめた。
「うちの子がついてながら、ごめんね」
「いいえ。大輔さんは悪くないので……大輔さん、います?」
大輔は店の奥で、汗だくになってメンチカツを揚げていた。額に噴き出した汗を拭いつつ、おばさんに呼ばれて出てくる。
「おう、紡。体調は大丈夫なのか?」
「うん。心配かけてごめんなさい」
頭を下げると、彼はおばさんに「ちょっと出てくる」と言い放ち、返事を聞く前に、店の外へとやってきた。
気になっておばさんを見たけれど、今はちょうど街自体が閑散としているし、僕が相手だからだろう。にこにこと「あとでメンチカツ、持って帰りな」と、送り出してくれた。
「渚んとこ行ったか?」
「まだ」
じゃあ行くか、と、わざわざ魚屋の前を通るルートで商店街を歩く。店の前につくと、最敬礼の角度で礼をして、「ちわっす」と、親父さんに挨拶をする大輔に、慌てて僕も会釈をした。
「渚か?」
客相手には、愛想よく大きな声で接客する親父さんは、なぜか大輔には冷たい。僕には「おう」と、声をかけてくれたけれど。
親父さんに呼ばれて、ドタバタとやってきた渚は、僕の姿を見て、表情を変えた。
「紡!」
化粧が流れるから泣くのはご法度のはずのギャルが、半泣きになっている。それほど僕のことを気にかけてくれていたのだと、今さらながらに実感する。
きっと、今回倒れたことだけじゃない。姉が死んで、僕がおかしくなってしまってから、ずっとずっと、僕らを知る人たちは、心を痛めていた。
しかし、ギャルという存在は、感情の爆発がすごい。全身で表現してくる。僕みたいな存在自体が陰の奴には、信じられない。表情だけじゃなくて、行動にも移す。
僕は彼女に抱きつぶされる。苦しいし、何よりもこう、柔らかい感触が……。
息が荒いとバレたらどうしよう。殺される。僕は呼吸を止めた。
「おい渚。紡が困ってんだろ。それに親父さんも怖い顔してる」
大輔がそう言って引き離してくれなかったら、そのまま意識を消失し、再び病院送りになっていたかもしれない。
渚は自分の行動を、はたと顧みて、「ごめんごめん」と、僕に謝った。
渋い顔をした親父さんに見送られ、僕らは近所の公園に向かった。遊具のない、いつもの広場だ。
遊具がなくても遊べるのが幼い子どもたちのいいところだが、たまたま今日は、誰もいなかった。
「ほら、飲め」
途中のコンビニで買ったスポーツドリンクを渡された。木陰のベンチに座り、直射日光は避けられるとはいえ、気温はまったく下がる気配がない。ありがたく受け取って、僕はふたりがボトルに口をつけるのを見つめる。
「あの……ふたりに、話があって」
姉の幼なじみ、けれど成長してからの付き合いは最低限。
そんな、近くて遠い関係だからこそ、親には聞くことのできない僕の疑問に、ふたりが答えてくれると信じている。
「姉さんの、ことなんだけど」
大輔と渚が、顔を見合わせた。アイコンタクトとうなずきひとつで通じ合う。
「……お前の姉さん、結は」
「知ってる。死んでるんでしょう?」
渚が「後追い」と言ったことがきっかけだったと言えば、彼女は苦しそうに顔を歪めた。
「ごめん。慌てて、つい……」
謝ることではない。僕は首を横に振る。
「ただ、思い出したっていうわけでもないんだ」
周囲の話から、姉が死んだという事実を突きつけられただけ。自分の実感としては、まだ曖昧で、ふわふわ宙に浮いている。自殺したと推測はできていても、何が起きたのか、理解できていない。
「だから、教えてほしいんだ。ふたりが覚えていること、知っていることを」
何を言われても、受け止める覚悟はできている。
スマホの向こう側にあるのは、地獄だ。もしも姉が苦しんで、助けを求めているのだとすれば、どうにかできるのは、僕しかいない。
だから、まずは知る必要がある。
大輔は、僕の目を見つめて、小さく息をついた。
「俺らだって、何もかも知ってるわけじゃない。中学までは一緒だったけど、高校は別だったし、あいつは昔から、引きこもり体質だったからな」
渚は彼の隣で、沈鬱な表情を浮かべている。
「自殺、だったんだよね?」
苦いものを飲み干した顔で、大輔は頷く。彼の手を、渚は自然に握った。自分の想いを託すように。
「あいつが命を絶ったのは、三月の半ばだった」
正確な日付を聞いて、僕はハッとする。それは、僕の中学の卒業式の翌日だった。
ただの偶然。言い聞かせれば言い聞かせるほど、何かの関係性を疑ってしまう。
姉は、首を吊って死んだのだという。引きこもりだったから、もちろん自室で。僕の隣の部屋は、姉が死んだ、呪われた場所。存在しているのに目に入らなかったのは、僕の中の防衛本能が機能したせいだろうか。
ぽつりぽつり、姉の話を続けた大輔は、言葉を切った。話すべきか話さざるべきか。迷い顔にすぐ気づいた僕は、「いいよ。何でもいいから、話して」と、強く言った。
それでも、何度もしつこく促さなければ、大輔はなかなか口を割らなかった。
はー、と大きな息とともに、囁くように、彼は言った。
「結のことを最初に発見したのは、お前だ」
僕?
僕が?
姉の死体を最初に目にした?
突然剛速球を投げられて、頭にぶつけられた気分だった。ぐわんぐわんと脳が揺れる。第一発見者だというのに、どうして何も覚えていないのだ。記憶を飛ばした自分が、情けないやら悔しいやら。
こうやって衝撃の事実を知らされたところで、姉の変わり果てた姿も、何もかも思い出すことができない。
倒れ込みそうになる身体を、二本の足でどうにか踏ん張って支え、僕はか細い声で、「なんで……どうして、姉さんは……」と、問いかけた。それは大輔や渚に対してのものではない。
どうして、死を選んだんだ。
生前の彼女のことを思い出す。引きこもりになる前も、なってからも、僕にだけは饒舌な姉。家族そろっての食事のときには黙りこくって、不機嫌そうにせかせかと掻き込むだけなのに、自室に戻った僕のところに遊びに来るときは、早口で楽しそうにしていた。
暗くてぼそぼそ喋るというイメージの引きこもりとは異なっていて、彼女は僕といるときだけは、表情が明るかった。
僕はそんな姉の相手をするのが楽しくて、誰も知らない姉のことを知っているのが、嬉しかったのだ。
僕が覚えている姉は、死を選ぶ兆候はなかった。前々から計画していたわけではなく、衝動的なものなのか。
姉の死体が発見されたのは、朝だった。
すなわち、決行は僕の卒業式当日だったということだ。あの日の夕食は、いつもよりも豪華で、普段はぶすっとした姉も、笑っていたっけ。
僕とにこやかに接しながら、彼女がずっと死を望んでいたとは、考えたくなかった。
だから、詩を選ぶにいたったきっかけがあるのなら、その日の夜、夕食後のことだろう。
僕は思い出そうと頭をフル回転させるけれど、一向に思い出せずに、しまいには激しい耳鳴りと頭痛に襲われた。
キーン、という高音ののち、聞こえてくるのは、スマホの着信音と、唸り声。スマホは母に預けたままなのに、なぜか聞こえる。
ああ、そういえば部屋で待っていると、姉は言っていた。
……今も、いるのだろうか。
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