ごえんのお返しでございます【41】

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ごえんのお返しでございます

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【40】

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第五話 切っては紡ぎ、紡いでは切り

 意識をなくした僕は、病院に運ばれた。

 目が覚めたとき、見慣れない天井なのに、嗅ぎ慣れた匂いがしたのは、毎月姉の代わりに通っている病院だったからだ。

「紡!」

 目の端に入った両親に、なんでこんなところにいるんだろう、とぼんやり考えて、思わず笑ってしまった。

 微妙な関係の親子であっても、息子が事故に遭って、救急車沙汰になったんだから、普通は来るだろう。

 母は涙を浮かべて、「あんたにまで何かあったら……」と、僕の手を取った。

 あんたにまで、か。

 言葉尻をとらえてしまう。「まで」を使うからには、僕以外の誰かの身に何かがあった。

 考えられる可能性は、ひとりしかいなかった。

 両親は失言に気づかずに、ただただ心配してくれた。詳しく話をするのは、帰宅してからでいいだろう。今はまだ、僕の頭もまだ、混乱している。

 医師がやってきて診察をしてくれた。頭を強く打ったわけではないが、一応検査入院というやつで、このまま一泊するように言われた。

 そうだ。大輔と渚は?

 母に尋ねたら、ずいぶんと心配していたから、元気になったらまた顔を見せに行きなさい、と言われた。頷いた僕に満足そうに微笑んでから、母は父について、病室を出て行った。

 足音が遠ざかって、さて。

 呼吸を一拍。ナースコールを押せば、すぐに看護師が来てくれて、僕の要望を聞いてくれる。

 何せ、僕の電子カルテのデータには、その医者の名前が、責任者として書いてあるはずだから。

 看護師の先導でやってきた冴木医師は、ベッドに身体を起こした僕の顔を見て、頬をわずかに歪めた。その真意が読めない。

 僕が知りたいと思っていることを答える覚悟を決めてくれただろうか。

「先生。聞きたいことがあります」

 柔和な笑みを浮かべる。薬も出すが、患者と対話をするのがメインの精神科医らしい、防御力に優れた表情だ。患者に引っ張られては、治療も何もない。ミイラ取りがミイラになってはいけない。

 彼の笑顔に感情はこもっていない。嬉しいとか楽しいとかの気持ちは皆無で、それは、糸子の微笑と同じだということに、僕は初めて気がついた。

「倒れたって聞いたけど、大丈夫かい?」

「ごまかさないでください」

 ぴしゃりと言ってやれば、彼は黙った。

「本当のことを、教えてください。姉は……姉は、本当は」

 言葉が詰まった。口に出したら最後、それが真実として固定されてしまいそうで、怖かった。歯の根が合わないほど震えてしまうのが、情けない。

 先生は、妄想から一歩抜けだそうとして必死になっている僕のことを、根気強く待った。決して、彼の方から答えを差しだそうとはしない。意地悪だ。そして誠実な医者だ。

「ね、姉さんは……もう、死んで……」

 口にした瞬間、胸の中に突風が吹き荒れて、ひりひりする。

「そうだ。君のお姉さん、切原結さんは、今年の三月に亡くなっている」

 直接言われるのは初めてのことで、僕は激しい苦痛に襲われた。肺が、心臓が、全身が痛みを訴えている。胸を押さえて苦しむ僕の背中を、冴木医師の大きな手のひらが擦る。

「う、うう、嘘だ……だって、電話」

 死んだという三月以降も、姉の番号からスマホに電話がかかってくる。何度も話をした。ついこの間だって。私の部屋に来て、と言っていた。

 部屋?

 高校を卒業してからずっと引きこもりニート暮らしをしていた姉の部屋は、僕の部屋の隣にある。

 ある、はずだよな? あれ?

 そこに部屋は存在している。毎日、階段を下りるのに、通らなければならないから、認識はしている。

 けれど、そこが姉の自室であるということは、意識の外に行っていなかったか。壁に扉がくっついているだけ。人の気配がしたことは、あるか?

 引きこもっているのなら、いつだって生活音がして当たり前。テレビの音、パソコンのキーボードを叩く音、くしゃみや咳き込むことだってあるだろう。極端な話、息をするだけで音がする。

「電話というのは、これかい?」

 ベッドサイドに置かれた小さな棚の上に、スマートフォンが出しっぱなしだった。冴木が勝手に取り上げて、通話履歴を見せてくれる。

 真っ白だった。もともと頻繁に連絡を取り合う友人なんて、篤久しかいなかった。彼がおかしくなってからは、ただのひとりも、電話なんてしてこない。親ですら。

 だからそこには、姉の名前だけが、ずらりと並んでいるはず。なのに、真っ白だった。

 僕は冴木医師からスマートフォンをひったくって、電話帳を開いた。もちろん、登録してある番号の数は片手の指で足りてしまう。その中にも、姉の番号はなかった。

「そんな……」

 確かに、着信画面には姉の名前があった。はっきりと覚えている。姉の間延びした、のんきそうな声も全部。

 きょうだいは仲良くしなくちゃね。

 そう言って笑う姉。

 全部、幻聴だったとでもいうのか。

 冴木は頭をかきむしる僕のことを、哀れんだ目で(僕がそう感じるだけなのかもしれない)見つめた。

「ここからが、治療本番だ」

 姉の代わりというのは、僕を病院に来させるための苦肉の策だ。僕に出されていたビタミン剤。詳しい説明は聞いていなかったけれど、あれだって本当は、精神科で出す薬の一種だったのだ。どうりで、種類が多いと思った。

「切原くん。辛いのも悲しいのも、全部僕にぶつけてごらん」

 そうしたら、姉のことを、この痛みの原因を、すべて忘れられるというのか。

「うるさいっ!」

 枕を投げつけた。突然のことだったのに、冴木は素早く受け止めた。

 肩で息をしている僕を見て、冴木はポケットからラフに注射器を取り出した。おそらく、精神安定剤か何かだと思う。僕がパニックに陥ることを、最初から見越していて、用意してきたのだろう。

 暴れる僕を、応援に呼ばれた看護師たちが押さえつける。

「大丈夫。ちょっとチクッとするだけだから……はい」

 痛みは少しも感じなかった。液体が自分の体内に入ってくる、ほんのわずかな違和感に、僕は顔を歪めた。

「はい、深呼吸。吸ってー吐いてー」

 言葉に従って呼吸を繰り返すと、頭がぼんやりしてきた。目を閉じて、呼吸が安定してきた僕を見て、冴木たちは病室を出て行く。まだ眠りには落ちていない。覚醒と睡眠の狭間の海で、僕はたゆたっている。

 姉が死んでいるとか、そんな馬鹿な話、ありえない。スマホに履歴も番号も残っていなかったのは、きっと誰かが勝手に弄ったんだ。そうに違いない。

 両親が僕たちを嫌ってやったのかもしれないし、冴木医師が今ここで消したのかもしれない。

 だってほら、今も聞こえるじゃないか。

 スマートフォンの、着信音。幻聴でも妄想でもなんでもない。振動とともに、けたたましく鳴り続けている。

 ハッとして、目を開けた。

 注射をうたれるときに取り上げられて、元の場所に戻されたスマートフォンは、僕が出るのを待っている。おそるおそる手に取って、画面を確認して、溜息が出た。

 姉だった。

 ほら、やっぱり死んでいるなんて嘘だ。冴木も、大輔も渚もみんな、僕をだましているんだ。今も姉は、自分の部屋に引きこもっていて、僕との電話を唯一の外界との接触手段にしているのだ。

「もしもし?」

 ここが病院で、スマートフォンの使用は制限されていることは、忘れていた。ただ、姉が実在していることを確認したい。その一心だった。

「姉さん?」

 ところが、僕の耳に聞こえたのは、「遅いよぉ」という姉の声ではなかった。

 船の汽笛をもっと大きくしたような音。そこに激しく入り混ざるノイズ。古い映画で見た、テレビの砂嵐に似ている。

「姉さん、姉さん?」

小声で呼びかけていたのだが、何も返事が聞こえないものだから、次第にボリュームがあがっていった。

巡回中の看護師に見咎められれば、また冴木がやってきて、今度は精神科への入院を勧められてしまう。

 細心の注意を払いつつ、何度も姉を呼んで、僕はようやく気がついた。

 ぼー、ぼー、ざー、ざー。

 その奥から聞こえるのは、地獄の亡者の恨みの声だと言われれば、納得できるようなものだった。

 だが、その声はただ呻いているだけではない。

 つーむーぐー。つーむーぐー。つーむー……

 僕の名前。

 理解したその瞬間に、通話を切った。そのまま電源も落とす。

 醜いガラガラの声は、似ても似つかないはずなのに、なぜか僕はわかってしまった。

 あれは、姉。姉の声だ。

 頭から布団を被っても、看護師にお願いしてナースステーションに預かってもらっても、けたたましい電子音は耳から離れてはくれなかった。

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