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<<4話のはじめから
<【39】
遠藤の事件は、学校でも問題として取り上げられた。
夏休み中にも関わらず、緊急の全校集会を開き、「出かけるときはどこに誰と行き、何時に帰宅するか必ず告げること」という、小学生にもイマドキしないだろう注意事項を上げられて、解散となった。
兄と一緒に家出をした。
告げられた事実はそれだけだった。ふたりの間にどんな感情が横たわっていたのか、教師たちは承知しているのだろうか。
恋愛に関する嗅覚が鋭く、妄想たくましい女子高生たちであっても、実の兄とのラブロマンスは想像できなかったようで、流れる憶測の中に「駆け落ち」という単語を拾うことはなかった。
「遠藤さん、渡瀬と青山が嫌になったんじゃないかな」
それが失踪理由だろうと大多数が思ったようで、彼らは遠巻きにされていた。
自分に好意を寄せていただろう女子たちにすら、声をかけても無視されるのだから、かなり堪えている。
僕ら三人は、遠藤の手紙に名前が挙がっていたことから、警察にも彼女の両親からも、事情聴取を受けた。
父親には殴られそうになったし、警察からもうさんくさそうな目を向けられたが、僕は「お兄さんがいるということも知らなかった」という嘘を貫いた。知らない相手との関係をそそのかすなんてこと、できるわけがない。
最終的に、遠藤の親は世間体を取ることにした。
駆け落ちという本当の失踪理由を、決して口外しないこと。念書にサインを書いたせいで、渡瀬たちは真実を告げることができずに、悪役を担うことになってしまった。
僕?
僕はよくも悪くも目立たない。むしろ、渡瀬らによって迫害されていた被害者だったから、遠藤に寄せられる同情の余波は、僕の方にもやってきた。
本当は、誰よりも深い罪を背負っているというのに。
ひとりで帰っていると、途中で車のクラクションを鳴らされた。歩道を歩いているし、危険行為は何もしていない。
わずらわしさとともに振り返ると、大輔が車を止めていた。幸せな家族の象徴、ワゴン車だ。助手席には渚が座っている。
「おい、紡。海行くぞ、海」
よく見れば、後部座席にはすでに膨らんだ状態の浮き輪やビーチボールが積んであった。浮かれすぎだし、第一デートだろうに、家の車じゃなくて、もっとおしゃれな車をレンタルしてくるべきじゃないのか。
呆れた僕が何も言えずにいると、渚が下りてきた。
「ほら、行くわよ」
小麦色に焼けた肌は、すでに今夏の海をエンジョイして過ごしてきたのだろう。健康的で、なのに漂ってくる香水の匂いはちょっとセクシーな気がして、ドキドキする。いやいや、彼女が誘惑したいのは僕じゃない。
「ふたりで行けば……」
渚の爪が、腕に食い込んだ。痛い。彼女は僕にそっと耳打ちをする。
「余計な気ぃきかせてんじゃないよ。いいから、来なさい」
無気力な高校生男子よりも、明確に意志の決まっている女子の方が強い。抵抗する気も起きず、僕は引かれるがまま、車に乗せられた。
カラフルな海の遊具たちが詰め込まれた座席は狭く、肩や手足を縮めて乗ることになる。
海へのドライブは、すぐだった。結局、お盆も過ぎてしまったし、サーフィンのメッカでもないので、客はいない。海の家はかろうじてオープンしているものの、店主はもてなしの心を忘れて、競馬新聞に何やら赤鉛筆で書きつけている。
「浮き輪とかいらなかったでしょ、絶対」
一応水着に着替えた(というか、下に着てきていた)ふたりと違って、僕は制服のままだ。砂が付着するのが嫌で、持ってきたレジャーシートに座るのも憚られる。
靴は脱いだ方がマシということがわかったので、裸足になった。ビーチサンダルを出してくれたのでありがたく借りて、三人で波打ち際まで向かう。
「気分だ気分」
「そう。こういうのってまず、道具からって言うでしょ」
言うかなあ。
うろんな目を向けた僕を無視して、「よーし、ビーチボールで遊ぼうぜ!」と、大輔がはしゃぎ始める。わざとらしい様子に、僕は彼らが強制連行したわけを、なんとなく掴んだ。
女子高生の失踪事件なんて、この微妙な田舎町では、大事件だ。噂はいくらでも、たくさんの尾ひれをつけて流れる。
僕の名前は出なかったかもしれないが、同じクラスであることは知れ渡っているだろう。何せ、数ヶ月前にはあわや刃傷沙汰が勃発しかけた。あれが起きたクラスの女生徒だ、という話が耳に入れば、ふたりは僕のクラスだということがわかる。
遠藤と僕との関係は知らなくても、篤久との一件があってからの僕は、少し過敏になっているところがある。
ふたりは、僕を慰めるために、海につれてきたのだ。
波は一定のゆったりとしたリズムで寄せてきては、僕らを引きずりこもうとする。地面にかかる重力の方が強いから、立ったままでいられる。海の冷たさと、砂と空気の熱が混じり合い、僕はただ、ぼんやりと景色を眺めていた。
波の音が、頭の中でぐちゃぐちゃこんがらがった思考を、すべてさらっていく。
篤久のこと。馬鹿な奴だとはずっと思っていたけれど、本当に、あんな馬鹿なことをしでかすとは考えてもみなかった。意志の弱い人間に、糸屋の運命の糸は劇薬だと思い知った。
美希には悪いことをした。美空の言い分だけじゃなく、彼女の話にきちんと耳を傾けていれば、あんな風に安易におつかいに行くことはなかった。事故はあくまでも事故だが、後味の悪い結果は、いまだに僕を苛む。
遠藤も渡瀬も青山も、美空の真実を知れば、怒るだろう。それとも美空は異様に口が上手かったから、だまされて彼女の味方をするかな。
もう、どちらでもいいか。どうせ彼らが顔を合わせることは、一生ない。
遠藤は愛を貫くためにどこかへ行ってしまったし、渡瀬たちは自分の生活を守ることに、必死だ。
高校生はもっと大人だと思っていたけれど、自分の感情をコントロールできないあたり、まだまだ子どもだ。糸に狂わされた彼らはみんな、我慢ができなかったからだと思う。
その点、両隣を陣取った大輔と渚は、ちゃんと大人だった。年齢だけの話ではないかもしれない。彼らは家が商売をやっていて、幼い頃から手伝って店に立っていたから、その分、僕たちとは成熟度合いも違う。
現に、同い年の姉は、彼らみたいに我慢強くもなければ、僕を気遣うということもない。
顔だって、ふたりに比べたらずっとずっと、子どもっぽい……。
あれ?
姉さんの顔って、どんなだっけ?
長く引きこもって、電話以外の連絡を取っていないからって、家族の顔をこんな風に簡単に忘れてしまうのは、よくない。遠藤たちの異常な兄妹愛とは真逆の方向で、僕と姉の仲が偽りみたいじゃないか。
思い出そうとして目を閉じる。どこからか、カチカチという音がする。
「紡?」
大輔に名前を呼ばれて、僕は初めて、それが自分自身が歯を鳴らす音だということに気がついた。
どうして。
姉のことを思い出すのが、どうしてこんなに恐ろしい?
その恐怖は、高いところから下を覗き込むときの、ひやっとするような生やさしいものではない。
最近同じような気持ちになったことがある。
それが遠藤の手紙を読んだときに感じた嫌悪とまったく同じだということを悟るのに、時間はほとんどかからなかった。
僕は、姉のことをどう思ってる?
姉は、僕のことをどう思ってる?
ふっと意識が遠のいた。引っ張られる感覚に、逆らえなくなった。
「紡!」
渚が悲鳴を上げた。大輔が助けに入るのも間に合わず、僕は前のめりになって海の中に倒れ込んだ。
「おい! おい!」
水の中だから、音がくぐもって聞こえる。顔を上げなきゃ。苦しい、息ができない。なのになぜか、僕の顔は海の水につけられたまま。
いよいよブラックアウトするかと思ったところで、ようやく助けられた。
「馬鹿野郎! お前、何踏ん張ってんだよ!」
目が開けられず、咳き込むだけの僕へ向けられた怒声から、見なくても、大輔がほとんど涙目になっていることを察せられた。
少し遠くからは、騒ぎに気づいた海の家のおじさんが、「おおい、大丈夫かあ?」と、叫んでいる。
ぜえぜえと呼吸を整えて、ようやく目が見えるようになると、渚が目を真っ赤にして号泣していた。その泣き方が尋常じゃなかったため、不思議に思った僕は、「渚さん」と、声をかけようとした。
だが、瀕死の僕の声は小さくて、かき消されてしまう。
とんでもない叫び声で。
「馬鹿! 姉さんの……結の後追い自殺するんじゃないかと思った!」
よみがえったはずの僕の意識が、再びブラックアウトする。
これは逃避だ。ありえないことを聞いたせいで、脳が考えることを拒否したのだ。
後追いなんて、ありえない。
それは僕が自殺する可能性がゼロだという意味ではない。
だって、姉は死んでなんかいないんだから。
生きて、僕のスマートフォンと繋がっているのだから。
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