<32話
自分の生きる時代に戻ってきたヒカルは、数日間医務室への入院をしたのちに、仕事に復帰した。幸い、桃子の幻覚は見えなくなっていた。
「奥沢巡査。初任務、ご苦労」
提出した報告書に目を通しながら、園田はヒカルを労った。楽にしていい、という言葉で、ヒカルは足をわずかに開いた。
「大変な任務になったようだが、大丈夫か?」
「……ええ、まあ」
起きている間は、問題がない。ただ、眠ると悪夢を見る。桃子が死ぬときの映像が、鮮明に映し出されるのだ。実際の光景よりも惨たらしく、ありえないことだが、自分が彼女の肉を喰らう夢まで見て、起きてすぐに嘔吐したこともある。
そんなことだから、眠ることができなくなった。ヒカルの顔色を見た園田は眉を顰め、ヒカルははっとして、「大丈夫です!」と、元気よく応えた。
「体調が悪いなら、医務室へ……」
「いえいえ! 全然そんなこと……」
言いながらも、ヒカルは眩暈を覚えた。昨夜もほとんど眠っていない。目を閉じるだけで、こちらを恨みがましく見つめてくる桃子の死体が浮かぶので、目を開け続ける他はなかった。
足元がおぼつかないヒカルを、園田は立ち上がって支えた。
「やはり、医務室へ行きなさい」
彼は手元のボタンを操作すると、医務室のエリーの元に、即座に連絡を取った。数分後にやってきたエリーの肩を借りて、ヒカルは医務室へと連行される。
ベッドの上に座らされて、エリーは診察を始める。シャツの前を開け、聴診器を胸にあてる。
「痩せたな」
ぼそりと呟かれた一言には、いつもの皮肉の色はない。ヒカルは視線を逸らしたが、エリーの大きな手によって捉えられ、下のまぶたをめくり、色を見る。
「栄養不足、貧血……それに、全然眠っていないだろう。この仕事は身体が資本だと、最初に言わなかったか?」
ヒカルは黙ってうなだれた。何を言っても言い訳になるし、エリーのような現実主義者に、死んだ人間に恨まれている気がすると言ったところで、「気のせいだ」と一蹴されるに決まっている。
「……忘れたいか?」
ヒカルは顔を上げた。真剣な表情で、エリーはこちらを見つめている。彼はヒカルの手を取ると、「この手で」と言葉を紡いだ。
「この手で愛した女を救えなかった罪を、黒田さんを犠牲に生き残ったことに対する罪を、忘れたいのかと聞いているんだ」
エリーの言葉に、ヒカルは微かに反応した。ぴくりと眉を上げ、彼をじっと見つめる。
もしも忘れることができるのならば、どんなに楽になれるだろう。時がすべてを解決するというけれども、過去へ未来へと行ったり来たりをこれからも繰り返す自分は、時間の流れを正常に感じられない気がしている。
過去に跳ぶ度、ヒカルは桃子や黒田のことを思い出し、その度に苦しむだろう。
ヒカルの視線を、エリーは肯定と受け取った。深い溜息をついて、ヒカルをベッドの上に寝かせる。
「目を閉じろ。大きく息を吸え」
命令口調だが、いつもよりも優しい声だった。なぜかヒカルは、彼にその言葉の意図を尋ねることすらせずに、自然と目を閉じていた。深呼吸をすると、脈拍は次第にゆっくりになっていく。
頭に、エリーの手が触れた。子供にするように、優しく撫でる。蕩けるような深い声が、耳に流れ込んでくる。急激に眠気が襲ってきて、ヒカルの目は開かなくなる。
「眠れ。辛いことは、全部、忘れて」
そうだ。忘れたら、よく眠れる。桃子が死んだこと。桃子と原宿に遊びに行ったこと。桃子と公園で話をしたこと……桃子と出会ったこと。龍神之業という団体のこと。黒田に出会い、父親の影を見たこと。あの時代に跳んだこと。初めての任務のこと。
園田のこと。エリーのこと。全部全部、消して。
「そうだ。ゆっくり息を吐け。そう……よい夢を」
ああ、今日こそは悪夢を見ないで済むのだ。身体は動かないけれど、ヒカルはほっとした。このまま眠れば、また、何もかもを忘れられる。
(……また?)
ヒカルは自分の思考を疑った。また、というのはどういうことだ。なぜ、そんなことを考えた?
途端に胸が熱くなり、鼓動が早くなる。動かせなかったはずの手を、ゆっくりと胸元にもっていく。
「ヒカル?」
不思議そうなエリーの声を聞く。熱を発している胸あたりを探ると、何かが引っかかった。(ポケットに何を……?)
記憶を蘇らせる。胸ポケットに入れていたのは、確か。
(桃子……)
そうだ。桃子と一緒に撮った写真だ。触れると熱を発しているように感じるのは、きっと桃子が、忘れないでと言っているのだろう。ヒカルはそう受け取った。
そして、すべてを思い出し、ヒカルは目を開けた。
視界に入ったのは、エリーの驚いた表情であった。この男も、こんな顔をするのだと思うと笑ってしまう。
ゆっくりと身体を起こし、ヒカルはエリーを見据えた。
「俺の記憶、何回消したんだ?」
はっと息を呑む音さえ聞こえるほど、静かだった。
「全部、思い出したのか?」
「いや……でもさ、最初からおかしいな、とは思ってたんだ」
どうして十月なんて中途半端な時期に、ヒカルが警察官に任命されたのか。方向音痴なヒカルが、医務室への道をたった一日で覚えることができたのか。一ヶ月という極端に短い期間で、実際の任務に投入されたのは、いったいなぜなのか。母に電話をしても、一切出ないのは。
すべて、ヒカルの記憶が消されていたせいだ。
本来は四月に警察官となり、その時点で母への報告も済ませている。すでに訓練をこなしているから、最低限で実戦に用いられるし、身体は道筋を覚えている。母と連絡がつかないのは、おそらくエリーが事情を説明し、電話に出ないように言っているのだろう。母に、「あんた何言ってんの?」と言われれば、ヒカルは混乱する。
「エリーは記憶を操れる、超能力者だったのか」
エリーは首を横に振った。
「俺の能力は、暗示。忘れたフリをさせることしかできない」
四月からのヒカルの記憶も、脳のどこか奥深くに眠っている。呼び起こすことができるのか、と問うと、できるがやらない、と返ってくる。
「お前がどうなるか、わからない。もうすでに、ボロボロなのに……」
エリー曰く、ヒカルはすでに、五回も彼による暗示を受けている。どんどん強力なものになるのは必然で、正直、今回の暗示で壊れてしまう可能性すらあった。
「壊れる……」
「脳が機能しなくなる。そうやって、植物状態になる人間を、俺は何人も見てきた。いや」
俺は、そんな人間を何人も、生み出してきた。
自嘲するエリーに、ヒカルは何も言えない。自分もまた、そういう風になっていた可能性が高い。
「時間を超えて、過去に跳んだ人間は、歴史の転換点を目の当たりにする。そして己の無力さに、打ちのめされる」
歴史を変えてはならない。その絶対的な使命の元に、ヒカルたち能力者は、目の前で起きる事件を止めることはできない。今回、桃子の死とその後の惨劇を避けられなかったように、記憶を消された自分もまた、心が折れたに違いない。
「狂う前に、俺の暗示能力で記憶を封じ込める。でも、それを何度も繰り返せば、心が壊れる」
だから、正史課はいつも人手不足なのだ。そういえば、課内のデスクは他の課よりもだいぶ少ない。皆が皆、過去に跳んでいるのかと思ったが、そもそもの絶対数が少ないのだ。
日々の生活で、ぼんやりする瞬間が多かったのは、おそらく暗示の後遺症だ。あの時間が続いていたらと思うと、ぞっとする。
もう、ヒカルに暗示は効かない。すなわち、ヒカルは辛い思いをした記憶を抱えたまま、生きなければならない。
「どうする?」
「どうする、って……」
エリーは二択を迫る。
時間警察を辞めて、一般人の生活をするか。それとも、発狂までのカウントダウンに怯えながら、続けるか。
「もっとも、辞められるかどうかはわからない。黒田さんだって、本当はすっぱりと辞めたかったのだろうが……組織は能力者を、簡単には手放さない」
そう言ったエリーの唇は、歪んでいた。自嘲だと、ヒカルは思った。能力者は何も、時間跳躍者だけではない。時間警察にはサイコメトラーもいれば、エリーのような暗示能力者もいる。
エリーもまた、辞めたいと思ったことがあるのだろう。でも、許されなかったから、医師免許を活かして医務室にずっといる。
(本当に、どっちが悪だかわかんないな)
退職が許されない、ブラックな職場。ピース・ゼロはたぶん、そんなことはないのだろう。自分たちの自由意志によって集った人間たちだ。いなくなるのも、また自由だ。
「辞めるか?」
その実、エリーは「辞めた方がいい」と言っているのだろう。ここで続けることを選べば、次はどれほどショッキングな現場に跳ばされるかわからない。
ひとつの時代に留まることを許されるだけ、捜査員を辞めた方がマシだろう。
(でも)
ヒカルは胸ポケットの中から、桃子の写真を取り出した。はにかんだ微笑みを浮かべている。
彼女は、逃げ出さなかった。ギリギリまでもがいていた。死ぬときだって、勇気をもって死んでいった。
そんな桃子のように、自分も生きるべきだと思う。
「辞めねぇよ」
ヒカルの言葉に、エリーは弾かれたように顔を上げる。唇の端を無理矢理持ち上げて、ヒカルは挑戦的な笑みを浮かべた。
怖いけれど、立ち止まっていたら、桃子に笑われてしまう。
「逃げない。俺は、きっちり運命を受け入れて、先に進む。桃子の分も、生きるんだ」
「ヒカル……」
もしも、とヒカルは続けた。
「もしも俺が、本当に狂ったら。そのときは、頼むな」
あまりうまく笑えた自信はなかった。エリーはヒカルの表情を見て、それから俯き、「ああ」と一言だけ言った。
覚悟は決まった。ヒカルは頬を張って、気合いを入れる。
この瞬間、ヒカルは本当の意味で時間警察の捜査官になったのだった。
(終)
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