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<<5話のはじめから
<【43】
大輔と渚に、一緒に帰宅した。家にいた母は、「おかえり」と同時に、目を丸くした。
僕が外出してからも、度々思い出しては泣いたのだろう痕跡が、ありありと残っている。ふたりをもてなそうとして動き始めた彼女を、僕たちは押しとどめた。
渚が僕の肩に手を置き、大輔はまじめな顔で僕にうなずいてみせる。
ああ、ここで大輔を頼ってはいけないのか。
「母さん。姉さんの部屋に、入ってもいいかな」
驚いた顔でこちらを見る母。麦茶を入れたグラスが、指から滑って落ち、割れた。とっさに動いたのは渚で、大きな破片を集め始める。
「紡、あなた……」
「僕は、姉さんがどうして死を選んだのか、知りたい」
いいや、知らなければならない。
そんな気がする。
じっと母が僕を見つめる。いたたまれない気持ちになって視線をそらす僕の前に、大輔が立った。
「おばさん、俺からもお願いするよ。こいつが結の記憶を取り戻して、心からその死を悼むことが、一番の供養だと思うんだ」
そう、なんだろうか。
僕はいまだに、姉の自死を受け入れられていない。彼女の死の理由を知って初めて、僕は実感できる気がした。
姉のためじゃない。今までだってそうだ。誰かのためという純粋なる無私の行動をとったことは、一度だってない。「情けは人のためならず」という慣用句を、誰よりも曲解しているのは自分だった。
僕が今後の人生を生きるために、姉が自分の心に隠していた大きな感情を暴き、傷つける。
それは、悪だろうか。善だろうか。自分が生きるために、死者の尊厳を損なう。そんなことが、許されるのだろうか。
母は、僕たちに許可を出した。鍵はかかっていない。両親はなかなか中に入る気になれずに、時折空気を入れ換える以外は、足を踏み入れることはほとんどない。遺品を整理する気にもなれず、数ヶ月前と同じ状態を保っている。
二階に上がったのは、大輔と僕。渚は床を掃除して、母に付き添ってくれる。自然と役割分担ができていた。
「行くぞ」
大輔が先導して、中へ。
扉を開けた瞬間に、記憶が蘇った……なんていう、都合のいい話はなかった。足を踏み入れると埃が舞い飛んで、むせた。大輔は真っ先に窓を開けて、新しい空気を室内に入れる。
生温い、夏の夕方の風だ。この時間でも、まだ涼しくならない。今夜もおそらく、熱帯夜だ。
風に乗って、様々な匂いがする。その中に、死臭が混じっている気がした。死んだ人間の臭いを一度も嗅いだことがなくても、「ああ、これは死臭だ」と直感する。
大輔は、「渚を連れてきた方がよかったな」と、舌打ちした。もう死んでいるとはいえ、年頃の女性の部屋だ。漁るのも、なんとなく気分がよくないのだろう。僕も同じだから、わかる。
でも、やらなければ。
僕はパソコンを担当することにした。大輔はあまり、機械が得意じゃない。
ディスプレイのトップページには、アイコンがぐちゃぐちゃに配置されている。ひとつひとつ確認をする。
姉の死後、警察がやってきたに違いない。不審死はすべからく、捜査対象だ。
けれど、誰かが侵入したわけでもない、家族の誰かが殺したという物証が出てくるわけでもない、言ってしまえば、今この瞬間も誰かが実行に移しているありふれた自殺に、時間を割けるほど彼らは暇じゃない。
パソコンの中もざっと調べたには違いないが、隠しフォルダの類は検討していないんじゃないか。
あるいは姉が隠していて、発見することができなかった記録媒体があるんじゃないか。
そんな気持ちで僕は、パソコンの中を、目を皿にして探す。
大輔は後ろでバタバタと収納をひっくり返していて、そのたびにくしゃみを連発する。ほこりアレルギーらしい。
フォルダを掘って掘って掘って……ようやく見つける。
「無題」と称したフォルダが、こんなに下の階層にあるわけがない。適当なファイルは、適当な保存場所になるものだ。
嫌な予感はひしひしとしているが、覚悟を決めてクリックする。さらにフォルダがあって、一応そこには「写真」「その他」と分かれている。
写真の方が、アイコンでわかりやすいだろうと思ってクリックした。
……後悔した。
ずらりと並んでいたのは……他でもない、僕の写真。
「なん、で……」
一枚一枚クリックするのも嫌になるほどの、圧倒的な量。パソコンのメモリの何分の一を占めているのか、途方に暮れる。
絶句して、動きを止めた僕のことを心配して覗き込んだ大輔もまた、驚いて「うっ」と、短く唸った。
「……心当たりは?」
首を横に振る。姉にカメラを向けられた記憶は、ほとんどない。スマホのカメラ機能は、僕たちのような友達がいない人種にとっては、無用の長物。普段は存在すら忘れていて、たまに美味しいものを食べたときに、「ああ、写真撮っておけばよかったな」と思う程度のものだった。
恐る恐る、一枚の写真を適当に選んでみた。拡大される写真。自分の写真なんて……特に、撮られることを想定していない、微妙な顔の写真なんて、見たくもない。
反射的にデリートボタンを押したくなる。大輔がいなければ、実行していただろう。
「これ、お前の部屋?」
「うん……なんでだろ」
ほとんどが、僕が自室でくつろいでいる姿だったり、勉強している姿だったり、眠っている姿だったりした。
考えられる可能性は、ひとつ。
姉は僕の部屋にカメラをしかけて、隠し撮りを楽しんでいた。ひょっとすると、今も僕の部屋には、彼女が用意したカメラが隠されているのかもしれない。
すぐに探しに行こうとする僕を、大輔は止めた。自室を家捜しするのは、あとでひとりでゆっくりやれ、と。僕は渋々、浮かせた尻を椅子に戻した。
他に何か隠されていないか、一枚ずつ写真をチェックしていく。自家中毒に陥りそうだった。頭痛とめまいに悩まされる僕の耳に、大輔の「おい!」という焦った声が届く。
「何かありましたっ?」
声が上擦る。警察が見つけられなかった、重要な何かを、素人の僕たちが見つけられるわけもない。
けれど、僕らが知っていることを、警察は知らない。見落とされていたそれは、彼らにはゴミにしか見えないもの。そして僕にとっては、じゅうぶんに意味を持つものだった。
「糸……」
ぐるぐると絡んだ糸の色は――……黒。
妄執の、色。
その色を認識した瞬間、僕の意識は遠のいていった。途切れる直前、大輔が椅子からバランスを崩して落ちた僕を受け止めてくれた感触だけ、背中に伝わった。
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