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<<5話のはじめから
<【44】
「姉さん、なんか今日、嬉しそうだね」
自分のイベントでもないのに。
僕の溜息交じりの問いかけに、姉は、「うふふふふ」という笑い声を噛み殺す気がない様子で、にやにやしながら頷いた。
「そりゃあ、ね。可愛い可愛い弟の卒業式でしたからね」
高校を卒業後、進学もせず、アルバイトすらしていない姉は、世間的には立派なニートだ。
要するに暇人で、彼女は今日の午前中、僕の卒業式に保護者として出席すると言って聞かなかった。一家庭での人数制限はないとはいえ、義務教育が終わるだけのセレモニーは一家そろって参加する、一大イベントではない。
母が、「あんたも卒業した学校でしょうが。先生たちに今の自分を見せられるのか」と、強く説得したことによって、渋々諦めてくれた。
僕が帰ってきて、姉が真っ先にしたことは、僕の学ランのボタンの無事を確かめることであった。
「姉さん。僕、そんなに心配しなくてもモテないよ」
昭和から平成、そして令和の学生にいたっても、第二ボタンだのネクタイを交換するだの、卒業式の恋愛ジンクスは、脈々と受け継がれている。
クラスで一番モテる男子は、もみくちゃにされて、気づいたらボタンが全部引きちぎられていた。漫画以外でも、あんなのあるんだな。遠くで見ていて、感動すらした。
「そんなのわかんないでしょー」
ふんふん、と鼻を動かして、ハンガーにかかっている僕の制服の匂いを嗅いでいる様は、明らかに変態である。
「やめてよそれ、本当に」
強めに言って、ようやくやめてくれる。その前に、大きく胸いっぱいに吸い込むあたりが、本当に無理。
「もう」
呆れて何も言えない僕と、にやにやしている彼女。時折僕は、姉の兄になったような気持ちになる。
「ねぇ、もう寝るから、戻りなよ」
特に目立った任務を負ったわけではないが、式典の主人公のうちのひとりになるのは、心と身体に負荷がかかった。今日は疲れた。もう眠い。
「えー、もうちょっとお喋りしようよぉ。ほら、お酒もあるしっ!」
「僕は未成年ですよ、お姉様」
部屋着にしているふわふわもこもこのパーカーのポケットから、チューハイの缶がふたつ出てきた。彼女は酒に強いわけではない。二本も飲まないから、一本は僕の分という計算だ。
「いいじゃんいいじゃん。中学校を卒業したお祝いの、今日くらいはさぁ」
きししし、と笑う様は、世界的にも有名な、児童文学に出てくる猫のようだ。原作というよりも、アニメ映画の方だけど。
にやにやして、ふわふわ何も考えていないようで、こういうときの姉はしつこい。経験上、僕はよく理解している。
彼女の手から缶をひとつ取った。グレープフルーツよりは、パインの方が甘くて飲みやすそうだ。
「お。いきますか?」
「いかないと、寝かせてくれないんでしょう?」
よーくおわかりで。
ぎゃははと笑う姉と、缶を合わせて乾杯。
グラスと違って音が鳴らないから、なんだか間抜けな儀式で終わった。
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