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<5話
「陛下。それは……」
時に理性は、本能に負ける。人でさえ、そうだ。まして竜は、自分の求めるものへ、躊躇なく手を伸ばす。
青年の頬は柔らかかった。突然触れられて驚き固まったが、見上げる目はやはり、濁りひとつなく美しい。
「この者を、後宮へと召し上げる」
力強い宣言に、背後のカミーユは絶句した。
竜王の生は長過ぎる。普通の竜人が平均で百年生きるところ、優に五倍の寿命を持つ。孤独を慰め、欲を満たすための後宮に、歴代の王は何人もの、何十人もの見目麗しき妃を囲っていた。妃が亡くなれば、その都度新しく追加され、複数の寵姫が後宮にいる状態が保たれる。
「しかし、彼は人間で……」
現在、後宮にはひとりも妃がいない。シルヴェステルは頬を歪め、吐き捨てた。
「カミーユ。竜人は私に、大切な娘を差し出したりしない。諦めろ」
主人が軽んじられることを是としないカミーユが、裏で画策していたことには、気づいていた。後宮は裏の政治の場でもある。王の寵を得た妃の生家は必然的に栄えるし、逆に、王が大貴族の後ろ盾を得る機会でもある。
歴代の竜王と比べ、影響力の弱いシルヴェステルが力を得るには、最も簡単な手段だが、決して上手くいくことはない。
「あの……竜王、陛下?」
「うん?」
唇を噛みしめてうつむいたカミーユのさらなる発言を待っていたところ、遠慮がちにかけられた声に振り向いた。鋭い目つきの封印はぎりぎりのところで間に合い、青年を怯えさせることはなかった。
「後宮って、俺は、その……男です」
後宮の役割を辞書的に理解している彼に、シルヴェステルは呵々と笑う。彼はこの国についても、竜王についても、何も知らない。
「なに、私の子が次の竜王になることはないのだ。だから、男が妃であっても、何の問題もない」
数代前の竜王の後宮には、年端もいかぬ美少年ばかりが、のべ百人以上、献上されたこともあったと歴史書は伝えている。先代の後宮にも、何人か男性の姿があった。
シルヴェステル自身は、男とつがったことはない。欲を覚えたこともない。
だが、無垢なる緑柱石の目を向けてくる青年とならば、交わってみたい。
胸の内から溢れてくる感情は、澄んでいるとはとてもいえない。これも竜の性。愛することができると思った相手を、決して離そうとしない独占欲。
醜い感情を殺し、白い手を握った。お互いに苦労知らずの、傷ひとつない手である。貴族のご令嬢の手など握ったことはないが、おそらく似たようなものだろう。つまり、触り心地がすこぶるよい。
「王都に、ともに来てくれないか。私はお前のその目が気に入った」
背後で三者三様に大きな溜息を漏らしているのを感じたが、シルヴェステルの目には、恐れを知らぬ彼の瞳しか映らない。
青年は少し悩んだあとで、はにかんだ。
「話し相手ならば」
無論、シルヴェステルはそれだけで済ませるつもりはなかったが、まずは大げさなまでに喜んでみせた。両手をぎゅっと握り、髪に口づけを落とす。
「そうか。ならば、仮の呼び名を決めなければならないな」
本当の名を思い出せない以上、どうしても必要になる。
「俺の、名前……」
ぽつりと零した言葉には、どこか寂しげな響きが込められている。彼は少し考えて、首を横に振った。
「自分で自分の名前なんて、思いつきません。だから」
信頼を寄せるまなざしに、シルヴェステルは最初から決めていたのだとばかりに、即座に名前を授ける。
「ベリル」
緑柱石の輝きで、私を魅了する者よ。
青年は――ベリルは、何度も自分の名を噛みしめて、微笑んだ。
>7話
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