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<8話
「ごめん。俺が……いや、俺たちが気づいて止めるべきだったのに、できなかった」
「落ち込まないでください。今日はスタッフさん、いつもより少なかったでしょう? 目が行き届かない部分もあります。それに」
肩を落として溜息をついた飛天を、映理は慰めてくれる。微笑んで、「助けてくれたじゃないですか。私のこと」と言う。
「いつも大丈夫だから、今日も平気だって思ってたんですけど。まさか、手を出してくるなんて思わなかったから……」
「あ、怪我とかはなかった?」
男の手で肩を掴まれたのだ。痣とかになっていたら困る。
幸い、映理は無傷だった。飛天は言葉に迷う。
今までが幸運が重なっただけだ。もっと性質の悪い客に会うかもしれない。危険な目に遭うかもしれない。
でも、映理の強い正義感と行動力を、飛天は心から羨ましく、好ましいものだと思った。できることなら、そのままでいてほしい、とも。
結局言葉にすることはできずに、ケーキをもそもそと食べる。最初に口にしたときは、あんなに甘くて美味しいと思ったのに、今は少しだけ、ほろ苦い。
スポンジはふわふわだが、さすがに何も飲まずにいると、口が渇く。飛天のカップにすでに紅茶はない。
「紅茶、淹れますね」
飛天がポットに手を伸ばしたのと同時に、映理の指も触れた。指同士がぶつかった瞬間、映理はまるで、汚い物に触ってしまったかのように、勢いよく引いた。
「あ、え、ごめん!」
妹以外の女子に、そんな風に扱われるのが初めてだったので、ショックを受けた。飛天はうろたえるあまりに、ポットを倒してしまった。
「っ」
中身はまだ十分に温度を保っていて、手の甲にわずかにかぶり、痛みを覚えた。すぐさま担当者がやってきて、「大丈夫ですか?」とポットを片付け、冷たいおしぼりを持ってくる。
わずかに赤くなっただけの皮膚に大げさだと思ったが、ありがたく受け取り、患部を冷やす。人心地ついたところで顔を上げると、映理が眉を下げて、泣きそうな顔をしている。
「ど、どうしたの!?」
よもや俺の手だけではなく、彼女にまで火傷をさせたのではないだろうか。
飛天は自分の使用後で悪いと思いつつも、おしぼりを渡そうとした。映理は首を横に振り、お茶をかぶっていないと否定した。
「ごめんなさい……。私、本当に、男の人が苦手で……」
小学校から女子校育ちで、今通っているのも女子大学。飛天ですら名前を知っている名門校で、当たり前だが身近なところに男性は、教員と親族しかいない。
「私は一人っ子だし、年の近いいとこにも、男の子っていなくて、不慣れなんです」
どうやら映理は、飛天に不愉快な思いをさせたことをすまなく思っていて、しっかり理由を述べなければ許されないと思っているようだ。
実際のところ、飛天は驚いたし悲しい気持ちにはなったが、映理に対して怒ってはいなかった。
最初に「男性は苦手」とはっきり言っていたので、逆に自分の不注意のせいだと思ったくらいだった。
「よくある話ですけど、私、幼稚園のときに男の子にいじめられていて。それで」
その後、男子に優しくされる機会もない女の園で平穏な生活を手に入れて、今に至るというわけだ。
おそらく、映理が可愛いから気を引きたくて、ちょっかいを出していたに違いない。飛天にも覚えのある行為だった。そして大人になった今、意地悪をしてもその愛情は決して伝わらないということも知っている。
映理は肩の下ほどまで伸ばした髪の毛を、無意識のうちにくるくると指に巻きつけてはほどいている。癖のつかない真っ直ぐな髪は、さらさらと流れていく。
「こんなんじゃダメだって、わかっているんですけどね。恋のひとつやふたつくらい、結婚する前に私だってしたいです」
男は苦手だが、恋愛への憧れは強い。そして自然と、恋愛と結婚を別物だと考えていることがわかる。
飛天の内に、ある考えが生まれる。自分にだけ都合がいいアイディアだ。映理を騙すようなものだ。
彼女はどう考えても高嶺の花。少し前までならまだしも、今の飛天とはまったく釣り合わない。
容姿のレベルならば、引き立て役にならずに済むか。いや、ダメだろう。人付き合いを避けるために、眼鏡とマスクが手放せない。それに、満足に笑みを浮かべることもできない。水魚には表情筋が死んでいると言われる始末だ。
だが、それでも。
「なんて、飛天さんに言っても仕方ありませんよね」
ごめんなさい、を言い切る前に、飛天は口に出した。ぽん、と背中を押されたように感じた。
「よかったら、俺とお試しに恋人になってみない?」
ドラマで軽い男が口にするセリフのようだと、我ながら思う。案の定、映理は飛天が何を言っているのかわからず、ぽかんと口を開けているじゃないか。
飛天は押すことしかできない。ここで気持ち悪いと言われて断られたら、二度と映理と会うことはないだろう。
「付き合う、っていうか。うん。男に慣れるための練習台に使ってもらっていいってことなんだけど。二人で出かけたり……」
補足説明は、相変わらずしどろもどろだった。脚本が手元にあれば、スムーズに口に出せるのに。あいにく、これは芝居ではなくて現実なのだ。
「勿論、君が嫌じゃなければ、だけど……」
最後はもごもごと口の中に詰まったような喋りになってしまった。映理の反応を目の当たりにするのが怖くて、飛天は俯く。
「……ぜひ! お願いします!」
「え?」
顔を上げると、映理の頬は紅潮し、瞳は輝いている。恋する乙女のような表情だが、別に彼女は、飛天のことを好きになったわけではない。自惚れるつもりは毛頭ない。
「ほ、本当に俺なんかでいいの?」
「ええ。飛天さんなら。飛天さんは、私の理想のスーツアクターですから!」
ヒーロースーツはみんな一緒だし、今日はアクションをしたわけでもない。初心者の飛天が、ベテラン並に格好いいポーズをできるはずもない。
何が理想なのかわからなかったが、飛天は自分の中に映理の気を引くことができるものがあったことに、感謝した。いや、あの目つきの悪いヒーローに感謝か。
飛天は右手を出す。
「じゃ、じゃあ、そういうことでよろしくお願いします」
映理はやや緊張した面持ちで、深呼吸をしたのちに、飛天の手を握った。小さくて柔らかい手だ。飛天は叫び、のたうち回りそうになる。
一目見て、可愛いと思った少女に今、俺は、触れている!
「よろしくお願いします。……生身の男性に触れるのは、やっぱり緊張しますね。ガワなら大丈夫なんですけど」
ガワが何か、飛天にはよくわからなかったが、彼女に触れてもらえるのならガワでもなんにでも、なってやろうじゃないか。
ぱっと離れた映理の手の感触は、いつまでも飛天の中に残っていた。
>10話
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