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<44話
高等法院の建物の地下、刑の執行を恐怖とともに待つ牢屋の前に、クレマンは立った。ベッドやテーブルに椅子といった最低限の家具が置かれているこの牢は、下級貴族や資産家のための牢である。生活環境が整っているわけではなく、剥き出しの土壁はしんと冷えているが、それでも毛布にくるまり地べたに直接寝転がるしかない庶民の牢よりは幾分もましな滞在が可能であった。
格子の向こう側にいる女囚は、音もなくやってきた断罪者には気づかず、鼻歌を歌っていた。歌詞のないメロディーは物悲しい。手にした鍵で扉を開けると、ようやく彼女は、クレマンを見た。
屋敷で会ったときよりも、痩せていた。質素な木綿のドレスの胸元はぶかぶかで、ふとした拍子に肩からずり落ちてしまいそうで、目のやり場に困る。もっとも、クレマンの戸惑いや羞恥は、仮面の下に隠されてしまっている。
「あら。もうなの? ここにいると、時間がわからなくて」
日の差さない地下牢生活は、時間の感覚が狂う。教会の鐘の音も聞こえず、取り調べで牢から出されるときと、運ばれてくる食事によって、だいたいの時間を推測するしかない。
彼女が殺人罪で逮捕され、今日で七日。暴れたり黙秘することもなく、素直に応じていた彼女に、これ以上の取り調べは必要ないと判断され、通常よりも早く、この日を迎えた。
ギイ、と音を立てながら扉を開けると、彼女は貴婦人そのものの堂々たる態度でクレマンの前を通り、外に出た。クレマンを見上げる彼女の目は十分に正気を保っていて、唇には穏やかな微笑みすら浮かんでいる。悩みごとがきれいさっぱりなくなって、すっきりしたと言わんばかりである。
マノン・カルノー。賢く美しい子爵夫人から、毒殺犯に落ちた彼女は、その選択を後悔していない。
彼女を馬車に乗せ、自分も隣に乗った。御者には事前に、いつも以上にゆっくりと広場までの道のりを走らせるように伝えてあった。今日がマノンの死刑執行日だということは、王都中の人間が知っていた。朝早い時間だというのに、沿道には人だかりができている。人々の目に浮かぶのは、嫌悪でも軽蔑でもなく、同情と称賛であった。
マノンの悩みの種は、夫・オーギュストが信頼を寄せる伯爵であった。家督を継いだばかりの若造であった彼を表から裏から援助していた人物で、マノンもまた、結婚したばかりの頃はなんと立派な人物なのだろうと思っていた。まやかしの姿であることを知らずに。
男児を生み、後継者をつくるという人仕事を終えた彼女に、伯爵は愛人関係を迫った。
君の夫を支えてやったのは誰だ?
私の力をもってすれば、君の息子など、どうとでもなる。
伯爵は若い貴族を教え導き、起業家のパトロンとなる一方、その立場を利用して、妻や娘に肉体を差し出せと脅迫する下劣な男であった。マノンの証言を裏づけるように被害を訴え出て、彼女の減刑を嘆願する女性やその家族は、後を絶たなかった。伯爵の家族は今、隣国に亡命する準備を進めているという噂だ。もはやこの国に、彼らの居場所はない。
クレマンが思う以上に、マノンの犯した殺人は、世論を賑わせた。連日、新聞の一面記事に取り上げられ、字が読めない人々のために、絵だけで事件のあらましを説明するものまで登場した。王都中の人間が、マノンのことを知っている。おそらく、時間差で国中の人間が知ることになるだろう。
償いは、損ねたものと同等のものによってしかなされない。つまり、人殺しに適用される刑罰は、死刑以外にはありえない。常識である。法学を学んだ者だけでなく、処刑を見物するのが趣味のような有閑貴族ならば誰もが知っている事実だ。犯した罪に釣り合わない重い刑を科されることはあっても、逆はない。どれだけマノンに情状酌量の余地があったとしても、彼女の死刑は免れない。
自分の命と天秤にかけた結果、マノンは覚悟の上で悩みの種であった男を殺した。
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