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<4話
男――花房は、最低でも週に三回は、駅前で弾き語りをしていた。帰りに彼の歌を聞くことが、司の楽しみになっていた。観客はいたりいなかったり。通りすがりの一見客ばかりの中、常連になっていた司のことを、彼も認知していたはずだ。話したことはほとんどないが、自分を見つけると、必ず唇に微笑みを浮かべていた。
なのに、業後に二人きりになっても、何の反応もなかった。この数日、パソコンでデスクワークをしているときに、ちらちらと窺ってみたけれど、どんよりした顔でマウスをカチカチさせるだけの花房に、失望が広がる。
観客がいようといまいと、自信満々に空に向けて歌い上げる花房を見ていたら、司の心境にも次第に変化があった。
自分も仕事を通じて、彼のような顔をしたい。彼に憧れ、ひとつひとつの仕事に邁進しているうちに、いつの間にか本当に変われていた。そのタイミングで室長が異動になり、代わりに新室長へと打診されたときは、ようやく彼みたいになれたと思っていた。
思っていた、のに。
「……」
生徒に問題を解かせている間、他の教室の巡回をするのも仕事のうちだ。他のアルバイト講師の授業はいつも見ているのでさっと終わらせて、花房の担当している中二の英語の授業の教室の後ろに黙って立つ。
背中が丸い。黒板の字が薄い。生徒がこそこそとスマホを弄っているのに気づいているだろうに、注意をしない。代わりに「おい」と一言生徒に注意すると、さっと机の中にしまうけれど、たぶん司がいなくなったら、また取り出すのだろう。
花房は司に一礼するでもなく、淡々と授業を行っている。声は小さく、早口だ。生徒にあてる回数も、基準より少ない。
研修、ちゃんと受けてんのか?
新人研修担当も、花房の正体を聞いて、ひよっているんじゃないだろうな。
授業に乱入しかけた司は、一番後ろの席の生徒の視線に気づき、自分の教室へと戻った。
そして授業後にも、問題は発生する。
「花房先生。河原の面談、どうでした?」
面談には様々な目的があるが、今回一番は、夏期講習前の退塾の防止だ。黄色信号の生徒は、アルバイトの講師たちにも振り分けている。
河原は例のYouTuber志望の鈴木鈴庵と仲が良い。河原自身は今のところ、欠席も多くはないし、授業態度も問題ない。だが、友人付き合いの結果、退塾に傾く可能性もある。逆に、河原のやる気を引き出せば、鈴木も塾に残すことができるかもしれない。
花房は説明にうんうん頷いていたので、信用して任せた。司はもっと退塾に近い生徒の対応に追われて忙しかった。
司の問いかけに、花房は、「あー……」と言ったきり、沈黙した。小さな子どもではないのだから、自分から報告できるだろうと、司も待った。しかし、花房は何も言わない。長い前髪の間から覗く目には、反省の色はない。
「もしかして、そのまま帰したんですか?」
時間がなかったとしても、最低限、次の面談日時を決めることはできる。それすらしていないことを確認した司は、もはや幻滅を隠さなかった。
花房は、一事が万事、この調子であった。
自分の仕事の合間にフォローに入る司だったが、彼には一切のやる気が見られない。親に嫌々連れてこられた生徒とほとんど同じで、司の指示を聞くときも、左足にだけ重心をかけただらしない立ち方だ。おまけに返事も、「はい」ではなくて「はぁ」という気の抜けたもの。
生徒であれば一発雷を落として講師の威厳を見せるところだが、相手は同い年の、いい年をした大人。しかも社長の甥で、上司からも「重々よろしく」と念を押されている。
どこまで厳しくしていいのかわからないまま、一週間。司のストレスゲージは、いよいよ真っ赤である。
大きく肩で息をして、司は忍耐強く、愛想笑いを浮かべた。
「どうして帰したのかな?」
と、生徒に対して尋ねるのと同じ口調になってしまうのは、仕方がないだろう。
たとえ司が怖い顔をして問い詰めたところで、この男は変わらない。笑いもせず、かといって恐縮するでもなく、ただ淡々と、
「すいません。忘れてました」
そう答えるだけ。室長じゃなかったら、すべてを投げ出してしまっている。
「この間も似たようなことしたよね? メモを取って、小テストの間に授業後に何をすべきかを確認するようにって言ったはずだけど」
「はぁ」
気のない返事は説得甲斐がない。
こんな男だなんて、思わなかった。ああいう風に人前で歌うことができる男だ。何事につけても自分ひとりでなんでもできる人間だと、信じていた。
「……裏切られた気分だ」
思わず、言葉にしていた。気づいて、慌てて両手で口を押さえるも、とっくに花房の耳には届いている。
聞かなかったことにしてくれないかな。
こっそりと窺う花房の目は、暗く濁っている。睨みつけられて、思わず後ずさった結果、机の角にぶつかってしまう。
そして彼は、低い声を絞り出す。
「裏切られたのは、こっちの方だ」
怒りや悲しみといった負の感情が、流れ込んでくる。手を伸ばしてきた花房の迫力に臆した司は、デスクの存在を忘れていた。それ以上動けないのに、逃げようとして阻まれる。
接近してくる花房の顔は、いつもよりもはっきり見える。鋭い眼光に射られて、司は動けない。虫の居所の悪さを隠そうともしない彼は、それでもイケメンだった。
暴力じゃなくて、キスなら大歓迎なんだけどなあ……。
などと逃避しつつ、予想される衝撃に耐えるべく、司は目をぎゅっと瞑った。
しかしそれは、杞憂に終わった。花房が動きかけた気配とともに、自動ドアが開く音がした。彼は遠ざかる。ホッと安堵するが、いったいこんな時間に誰が?
花房の肩越しに見えたのは、湧田だった。
「はーい。ふたりとも。仲良くやってる?」
軽薄な中年男の声に、司は脱力した。
>6話
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