<<はじめから読む!
<106話
「明日川くん。皆さん。ちょっとお付き合いいただけますか?」
呉井さんが言い出したのは、修学旅行の自由行動中だった。
彼女の誕生日の翌日、月曜日。無事に投稿した呉井さんを見て、柏木は泣きながら抱きついた。山本は、涙こそ流していないものの、感極まった表情で、少女たちの抱擁を見つめ、それから俺の肩を「やったな」と小突いた。
クラスメイトはいきなりの号泣に面食らっていたが、そんな空気を俺たちは知ったことではない。ただただ無事に、呉井さんが生きていることを喜ぶだけだった。
そして修学旅行にも、呉井さんは楽しそうに参加していた。水族館では年相応にはしゃぎ、戦争体験者の話には真剣に耳を傾ける。
「いいけどさ……敬語」
あ、と呉井さんは舌を出した。お茶目な表情もまた、彼女が隠していた素顔である。
「ごめんね。付き合ってほしいんだけど、いいかしら?」
長年使ってきたお嬢様言葉は、彼女を友人から遠ざけてきた。この修学旅行中に、なるべく普通の言葉遣いに戻したいという呉井さんの目標に賛同し、俺たちはチェックの目(ん? 耳か?)を光らせている。
「俺はいいけど」
山本と柏木も頷いたのを確認して、俺たちは呉井さんの後に続く。
彼女が連れてきたのは、海だった。オフシーズンな上、観光地とは程遠い、地元の海! という感じだ。それでも、南国でしか見られない透き通ったブルーなのはすごいと思う。
呉井さんは、肩にかけていた鞄から、手帳を取り出した。そして挟んである一枚の紙……いいや、写真を手に取る。
「呉井さん」
きゅっと引き結んだ唇からは、確固たる意志が感じられる。けれど裏腹に、目には力がなく、今にも泣きそうな顔だ。
彼女は両手で写真を持つ。そのまま捻りを加えれば、簡単に破れてしまうだろう。ぐっと力を入れて、手が震えている。
「無理はしなくていいんだよ」
俺はそっと彼女の肩に触れた。日向瑠奈の呪縛から逃れたのは喜ばしいことだが、すべてを捨て去る必要はない。大切な思い出はそのまま、しまっておいても別に構わない。
呉井さんは首を横に振る。
「私が、そうしたいの」
これは彼女にとっての儀式なのだ。最後まで心に刺さっている棘を抜いて、自由に生きていくのだという、決意表明。そのために、俺たちの前で写真を破り捨てようとしている。
大きく深呼吸をして、呉井さんは腹の底から叫ぶ。
「瑠奈ちゃん! ありがとう! さようなら! 私はまだ、そっちには行かないからぁ!」
写真は細かく寸断されて、潮風に乗ってさらわれていく。いくつかは砂浜に落ち、それから海へと流れていく。
「……さよなら、瑠奈ちゃん」
しんみりと呟き、静かに涙を零す呉井さんを、不意に抱き締めたいと思った。だが、付き合っているわけでもないので、その役目は柏木に譲る。女子同士だから、気兼ねなく柏木は呉井さんをぎゅうぎゅう抱いて、頭をぽんぽんと叩いてもらっている。慰めているのか、慰められているのかわからんな。
呉井さんはそれから、ゆっくりと振り返って微笑んだ。
「行きましょ」
彼女は海を、振り返らない。俺はその背中を追う前に、彼女の代わりに振り返った。
秋の日を映し輝く、海。寄せては返す波の遠く向こう側に、呉井さんは別れを告げた。
もう大丈夫だ。俺はようやく、肩の力を抜いた。
「明日川くん、早く!」
「はいはい」
呉井さんの呼び声に、俺は手を振った。
クレイジー・マッドは転生しない。
少なくとも、今は。
今度こそ俺は、海を振り返らなかった。
(終わり)
コメント