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<27話
呉井さんの歩みは、最初のときと違って遅い。普段平地の道端に生えていたら、気にも留めないような草花を見つけては、虫眼鏡をポケットから取り出す。そして、俺に空いている方の手を差し出すのだ。俺は黙って、該当の図鑑をその手に載せる。わがままお嬢様の無言の要求にすべて応える、有能な執事になった気分だった。お嬢様の鳴らすベルに、銀のトレイから適温の紅茶をカップに注ぐ、そんなイメージだ。オタクとして、執事に片眼鏡は必須アイテムだ。
そんなしょうもない妄想をしてしまうくらいには、飽きていた。呉井さんも、小中学校の授業でしか、植物観察はやったことがないらしい。しっかりと区別がつかないため、同じ植物を何度も何度も、図鑑で確認する羽目になる。
呉井さんは、そんな繰り返しも楽しいらしいが、俺としては勘弁してもらいたい。余裕はあるとはいえ、時間も気になるところだ。少なくとも、昼食をゆっくり摂りたい。腕時計を確認する回数が増えた。
「うーん。やはり、苔の図鑑も持ってくるべきでしたわ」
岩肌には緑色の苔がわさわさと生えている。この分だと、顕微鏡もあれば……と、言い出しかねない。
「苔はさすがに、転生先で役に立つかどうか……」
少なくとも、俺は苔マニアの転生者を見たことはない。そんなことを言うなら、キノコマニアもだけど。なぜか転生者は、マニアでもないくせにいらんことを覚えているんだよな。
「あら、わかりませんわ。転生先が、この世界よりもひどい温暖化に悩まされていれば、苔による緑化は有用ですし。ミズゴケの類は、昔はスポンジ代わりに使われていたそうですよ」
こんな風にな。
無駄知識の多さでいうなら、きっと呉井さんには転生者になる資格がある。悲しいかな、ここは現実世界なのだ。彼女の夢見る転生は、一生研究を積んだとしても、できやしない。
「苔は滑るから、あんまり近づかないように」
俺はそれで、苔トークを打ち切った。呉井さんも、そこまで苔に愛着はないようで、特に食い下がることはなかった。
「そろそろ真面目に登らないと、昼の休憩時間がなくなるよ」
俺が指さした時計ではなく、彼女は自分の腕時計を見る。さすがにいつも学校につけていくような華奢なブレスレットタイプの装飾性の強いものではなく、スポーツウォッチだ。白を基調としたウォッチは、おそらく最新性で、呉井家の財力を窺い知る。俺のは中学の入学祝いにもらったのを、ずっと使っているというのに。
>29話
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