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<8話
兄の「おやすみ」の声で眠り、「起きて。遅刻するよ……おはよう」と起こされる日々が、小学生当時の理の幸せだった。文也の優しい声をいつまでも聞いていたくて、わざとぐずぐずと起き出したものだった。
あの頃はまだ、自分が兄に抱く気持ちを、兄弟愛であると信じていた。言い聞かせていた、という方が正しいかもしれない。
血が繋がった相手に、それ以外の、またそれ以上の好意を抱くのは間違ったことだ。
世間一般に押しつけられた倫理観に、理は当時、囚われていた。
理のその考えを突き崩したのは、例の派手な女子高生だった。
彼女は評判通りのいわゆるビッチという奴で、そのとき聞いた話の半分も、奥手な性質の理は理解していなかった。
だが、恋愛はお手の物だと自負する彼女との対話を通じて、理は文也へと向ける悶々とした感情が、恋であることを認め、肯定し、そして増幅させていく結果になった。
彼女は複数の男と付き合っていた。肉体関係を持っていた。その中には、彼女の親友の恋人も含まれていた。
――そんなことして、いいの? みんな、お姉さんのせいで困るんじゃないの?
やめた方がいいんじゃないの、というお節介な気持ち半分、純粋な疑問半分で、理は下着が見えそうになっている少女から、視線を逸らして尋ねた。
彼女は豊満な胸を張って、声高らかに宣言をする。
――好きになったらねえ、奪いたくなるのよ。全部。あたし以外の女に、目を向けられないようにしてやりたい。そのためだったらあたし、なんだってするのよ。
フミくんへ、と兄に向けた手紙がついたクッキーを見ながら、彼女の言葉を繰り返し、胸の中で呟いた。
好きになった相手の視界には、自分さえいればいい。情熱的な恋は、愛とは違って、相手の幸せを願って身を引くなんて考えられない。
たとえ、相手が誰であろうとも、好きになってしまったら、止められない。
たまたま理にとって、心を揺さぶられる相手は正真正銘の兄であった。ただそれだけなのだ。
――僕は、文也兄さんのことが、好きだ。
唇にそっと載せると、気持ちに名前がついて、現実味を帯びてくる。
好き、好き、好き……大好き。
兄さんに近づく相手は全員、許さない。結ばれなくても、文也を愛しているのは自分だけでいい。
少女は理に恋の自覚を促し、新たな世界を見せてくれたという点では、恩人だ。が、それとこれとは話が違う。
文也の隣を我が物顔で歩こうというのだから、彼女は敵だ。存在自体が悪だ。
理は幼い頭で必死に考えていた。いつしか空は、夕焼けに変わっていた。
その日、一番に帰ってきたのは、珍しく父であった。鍵を忘れた理に対して、「バカだな」と笑った。
理は咄嗟に、持っていたクッキーの包みを渡した。
――なんだこれ?
――ここでさっきまで一緒に喋ってた、××さんちのお姉さんが、お父さんに、って。
父親の名前は、文浩……フミくん。
三十歳以上年下の娘から、「くん」付けでなれなれしく呼ばれたことに、父は拒絶を示すのではないか。
そう思って理は、ドキドキと成り行きを見守った。
手紙に熱心に目を通していた父は、「ふぅん。そっか」と言ったが、彼女に興味を持ったことは明らかだ。
手紙にはメールアドレスが書いてあったようだが、母は父の浮気に神経質になっており、メールや電話で連絡を取るのは無理だった。
そのため、父は理を使った。一回につき五百円の小遣いで、父と女子高生との間の連絡係をすることになった。理にとっては、好都合だった。
翌日、同じ時間帯に外にいると、彼女がやってきて、「クッキーどうだったって?」とにやにやしながら聞いてきた。
――おいしかったって。
勿論文也は一口も食べていないが、主語は勝手に、彼女が解釈してくれる。少女は喜んだ。理が父から預かってきたメモを渡すと、更に飛び跳ねて嬉しがった。
理は伝書鳩だった。本物の伝書鳩と違うのは、二人の手紙のやり取りを覗き見することができ、ただ一人、真実を知っているところだ。
女子高生は、父の返事を文也からのものだと思って、返事をした。フミくん、というあだ名が理にとっては功を奏し、彼女にとっては運の尽きであった。
>10話
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