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<18話
遅い昼食の後、俊は家に帰るのをぎりぎり遅らせたくて、図書館にいた。手近なところにあった書籍を手にとって席についたものの、なぜこれを選んだのか、という畑違いの工学書であったためにページを繰る手は重い。
ふ、と小さく息を落として「何をしているんだか」と俊は思う。きっと家でウサオは暇を持て余しているだろう。早く帰宅できる日は寄り道せずに帰って、二人でゲームをしたり映画を見たりするのが常だった。普段ならば今日は、そういう日だったはずなのに。
研究対象とそんなに深くかかわっていいのだろうか。この疑問が消せない限り、ウサオとの関わりが自然になることは、残念ながら、ないのだ。
読書もはかどらないし、勉強でもしようか、と鞄を開いたところで、俊は自分のスマートフォンが赤く点滅して、着信を主張していることに気がついた。
「うわ」
思わず声が漏れた。着信件数が今まで見たことがない数に上っている。ひとつひとつ確認をすると、そのほとんどが高山からのものだったが、最初の一件は、ウサオによるものだった。
ウサオが電話をしてくるなんて珍しい。何かあったのだろうか。俊は荷物を慌ただしくまとめると、図書館を出た。高山からの着信よりも、ウサオの電話に対する折り返しを優先させる。
心臓が嫌な音を立てていた。通話に切り替わったときに願ったのは、「今日の晩飯何食べたい?」という呑気な声だったのだが、聞こえてきたのは、ウサオではありえない、男の声。
「ウサオ?」
くっ、とこちらを馬鹿にしたような笑い声に、総毛だった。そんな、まさか。もう一度震える声で「ウサオは……?」と問いかけると、どう逆立ちしても自分に対して好意的ではない男の声で、返答があった。
『あ? ウサギちゃんか? どうだろうな?』
ガン、という音が聞こえた。ひっ、という小さな悲鳴も。囃し立てる男たちの下衆な笑い声も。
「おい! 錦! お前ウサオに何して……!」
『三船よぉ。ウサギ人間って超インランなんだろ?』
俊は息を呑んだ。そんな、まさか。
電話の奥では怒声と壁を何度も打ち付ける音が聞こえた。卑猥な言葉を投げかける男たち。ウサオはどうしているのか、わからない。
『ちょっとツイッターでウサギ人間発見つって写真流したら、ウサギちゃんと一発ヤりてぇ連中が集まってきちまってよ』
こいつ使って俺は商売したいだけだったんだが、と錦は笑った。
『ま、仕込みはばっちりになるだろうけどな。壊さねぇように言っておかねぇと』
錦はウサオを輪姦しようと集まった男たちを止める気はなく、唆している。
「ウサオに、手を出すな……」
『は? やっぱりお前らできてたのか?』
「違う! けど……!」
『どの道ウサギ人間じゃ、まともな暮らしはできねぇだろ。俺が可愛がって、たくさん稼げるようにしつけてやる』
そんときはお前にも斡旋料を支払ってやるよ……そう悪辣に笑って、錦は通話を切った。
「くそっ」
スマートフォンを叩きつけそうになって、手元のこの端末でしか情報を得られないのだということに気がつき、なんとか耐えた。それと同時に着信が来て、ワンコールで誰が相手かも確かめずに、通話ボタンを押す。はい、と俊が言うより先に相手の鋭い声が耳を貫いた。
『お前、いったい何をしているんだ?』
絶対零度の声は、彼自身の怜悧な美貌にふさわしいが、今はそれに聞き惚れることは許されていない。
「笹川さん……っ」
『ウサオを一人で外に出して、いったい何を考えている! 俺達はお前を信頼して、ウサオを預けたんだぞ』
自分の知らないうちにウサオが勝手に外出したのだ、という言い訳が笹川や高山には通用しないことはわかっている。だから俊は何も言わなかった。
『今からネットにあげられていたウサオの写真を送る。お前は全力でそこを探せ。わかったらこちらに連絡しろ。今そっちに向かっている。藤堂刑事にも連絡をしているから、可能なら合流を』
「っ、はい!」
俊の返事を聞く間もなく、笹川は通話を切った。それからすぐに俊の元にウサオの写真が流れてくる。テープで止められていても、その頭に生えているのが異形の耳であることは、はっきりとわかった。目も隠されていない。明らかに怯えている様子だった。
画像はツイッターの投稿画面をスクリーンショットしたものだった。ウサオの写真の上には『エッチなウサギちゃん見つけた☆』というふざけたコメントがなされている。
「……ウサオ……っ」
悲痛な声でウサオの名前を呼ぶが、そんなことをしていても事態は好転しない。大学構内にいることは間違いない。どうにかして見つけなければ。
俊は写真に目を凝らす。薄暗い画像ではよくわからないが、錦がウサオを脅迫し、強姦なんて真似をしようというのならば、目立つ場所ではないはずだ。
錦は写真をアップしたらレイプ目的の男たちが集まってきた。そう言っていた。もうこの呟きは消されているだろう。そして自分から、外にわかるような形でこの場所を明かすはずがない。さすがに錦はそこまで馬鹿ではない。かといって一人ずつ秘密裏にメッセージのやりとりをするような性格ではない。
ならばこれを見た人間が、どこなのかわかるようになっていたはずだ。興味本位でウサギの耳を持つ人間を追い回す連中がこんなにも学内にいたなんて、俊には信じられない。
学内の人間ならばわかる、かすかなヒントがこの写真には残されているはずだ。探せ、探すんだ。今こうしている間にも、ウサオの身が危険に晒されている。
ふっ、と視線をウサオの右下にやったとき、あ、と俊は声を出した。
そこにあったのは相合傘だった。ただの落書きではない。この大学では有名な相合傘。俊はその言われを詳しくは知らなかったが、友人曰く、呪われているのだ、と。
――昔教授と不倫関係にあった女子学生がいて、彼女が妊娠した。妻との別れを迫られた教授は、彼女を手ひどく振った。彼女は失意の中、講義棟の中に二人の名前を赤い相合傘に書きつけて、自死したという――
思い出せ、その講義棟はどこだと言っていた? 飲み会のときの他愛もない怪談だった。記憶の底から呼び起こす。
――相合傘の下に二人の名前を書くと、別れてしまうらしいぜ。それが今、旧理工棟なんだってさ。今はほとんどの学科が新棟の方に移っちまってるけど――
原子力研究室だけは扱っているものがものだけに、実験器具などを容易には動かせないため、取り壊されることは決してないのだという。
「旧理工棟……!」
笹川に連絡をしつつ走り出す。笹川は「そうか。わかった。藤堂刑事とは合流できているか?」と聞いてきたので、「できてません!」と叫んだ。
『なら藤堂刑事、高山とともに向かう。旧理工棟の前で待っていろ。いいか。決して早まるなよ』
わかりました、などと俊には言えなかった。待っていられない。高山がいる文学部棟よりも自分がいる図書館前の方が圧倒的に旧理工棟に近いのだ。俊は手早く通話を切った。
怯え切った、助けを求める写真の中のウサオの目。自分などが行ったところで、助けられない。ウサオ自身の方がよほど筋肉もあり、体力もある。けれどウサギのヒューマン・アニマルということで男たちをなぜか惹きつけてしまうのだろう。
――あいつにも、そういうところがあった。
望むと望まざると、男を誘うフェロモンのようなものが出ているのかもしれない。初めて自分たち以外の人間に出会って、ウサオもまた混乱しているに違いない。そんな中で抵抗なんて、できるものだろうか。
自分が助けなければならない。アニマル・ウォーカー代わり、研究相手だからとか、そういう義務感から来るものではない。
純粋な想いだ。友情だ。そんなの最初から、わかっていたじゃないか。助けて、と言われたらそれに応えたい。答えなければならないのではない。自分が、彼を助けたいのだ。
だから走れ。最悪の結果にならないように。
>20話
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